説明責任の行き届いた社会を目指して

大昔、生物学者になりたかった40過ぎが、今また再チャレンジ

『生物と無生物のあいだ』を読んで感じたこと

昨日から読んでいた、『生物と無生物のあいだ』を、今、読了しました。

 

ちょうど昨日、電車移動が長かったから、その移動時間中にでも読もうかと軽い気持ちで読み始めたんだけど、読了すると、すごい満足。小さい本だけど、ものすごいたっぷりな内容だった。

 

ワトソンとクリックのDNA二重らせん構造発見の経緯や、それを含むもっと根本的な大きな生物学の歴史について、アメリカ現地にいないとわからないような諸事情が、平易でわかりやすい日本語で書いてある。

 

エピローグで著者の福岡先生の原点となる子供の頃の記憶の話が出てくる。それも、俺はとても面白く読んだ。

 

ただ、本当に生物学が好きで、で、ある程度生物学の勉強も進んだ人じゃないと、完全に読みこなすのはちょっと難儀するかなとは思った。副読本としては文句なし、完全無欠の本だろう。

 

研究者としてやっていくとはどういうことかについても、微に入り細に入り、手ほどきしてくれるのは、俺は他書では読んだことはなかった。これ読んで、40過ぎの俺は、ああ、俺自身はもう研究者にはなることはできないんじゃないかな、それより教育に携わるほうが良いんじゃないか、向いてるんじゃないかと、本気で考え始めた。

 

いやマジ、実はこの前社会人入試に落ちたんだけど、あれが、本当に俺が研究者になるためのラストチャンスだったんじゃないか。で、それは、もう終わった、過ぎ去ったんじゃないか。

 

まあ、いくつになっても遅すぎるということはない。ただ、自分でも納得の行く生き方として、研究者になるというセンが薄くなりかけてるのを、この本を読了して、感じた。

横浜→保土ヶ谷の街歩き。孤独だった高校、大学時代の記憶を訪ねて

今、保土ヶ谷マクドナルドにて、このブログを書いている。

 

都内の中高一環の男子校に通っていたが、中3の頃から所属していた卓球部を幽霊部員になり、よく横浜駅から最寄りの保土ヶ谷駅まで、電車に乗らずに歩いて帰っていた。全く、孤独だった。

 

そんなんだから、その後の破滅につながったんよ。多感な思春期に、誰とも喋らず、関わらず、一人で誰もいない道をほっつき歩いてたんだから。

 

まあ、その同じ道を、たった今歩きなおしてみたんだけど、まあ道としては悪くはない。一応、「旧東海道」ということで、由緒正しい道であったことは、だいぶあとになってから気づいた。だから、昔っから多くの人が往来してたとこを、俺も歩いてたことになる。

 

歩き疲れた身体に、三角チョコパイが甘く染み込む。昔も、たどり着いた保土ヶ谷のマックやケンタ、カフェドクリエなどで、そういや、勉強とかしてたなあ。

 

色々あったけど、今は、人付き合いも人並みにできるようになりつつある。俺は、人の間で、生きていこう。そう思った。帰ろう、今の地元に。

 

せっかく横浜エリアまで来てるから、帰りがけに駅周辺でもうちょい遊んでから、帰る。この小旅行をもって、俺は新たな受験チャレンジへと全速前進モードに入るつもり。受験という近視眼的な目標を超えて、45歳までに「生物学者のための量子力学学習ブログ」発表に向け、諸々勉強していく。手近の人的ネットワークをたどって、自主ゼミもいくつか持ちたい。教わりたいし、教えられることは教えていきたい。充分それは時間的、能力的に可能なことだ。

 

自分の原点に帰ることは大事だ。気持ちがとても落ち着く。

 

孤独だった高校、大学時代を否定はできない。それは俺の歴史だ。ここから俺は成長してきた。

『豊饒の海』読了しました。読了直後の感想

深夜01:30頃、これを書いている。今、『豊饒の海』を最終巻まで読了したので、直後の今の状態で感想文をしたためておこうと、パソコンを立ち上げた。
 
全巻通して、たくさんの衝撃を受けた小説であった。
 
受験不合格を機に人生を考え直す、という目的に照らし合わせて、この小説を今読んだことは、おそらくかなりの正解だろうと思われる。
 
読んで、良かった。
 
解説を、まだあえて読んでない。ひと晩、解説抜きで、生の三島の文章の記憶に直面しながら眠りたいから。
 
いやマジ、狂気と紙一重の作品。てか、まんま狂気が表現されてるような、奇跡みたいな本だぜ…。いろんな読み方ができる本なんだろうな。
 
言葉で物事をとらえるという行為そのものが、かなり激しい一定以上のストレス下では、根本的に捻じ曲げられてくからね。それは俺も体験したことがあるから肌感覚としてわかる。それをこんな長い小説の中でありありと描いてみせた三島は、若かったが、文豪の名にふさわしいでしょ。
 
第二巻「奔馬」の佐和、第四巻「天人五衰」の慶子などが、俺的には好みです。人として誠実だ。俺もそうありたい。
 
ちょっともう今はまだこれ以上感想がでてこないや。寝よう。

「春の雪」を読み終えました

三島由紀夫の『豊饒の海』第一巻、「春の雪」を、今、読み終えました。
 
いくつか感想は持ったのですが、読み終えてみると、ちょっと途中で感じた感想はどれも陳腐な気がして、ここに書くのは気がひけるのですが。
 
いや、まず、死を覚悟していたにもかかわらず、文章の美しさに対する気迫がすごいなと。だから、マジ、お金のためじゃないし、生活のためでもないよね。美しい文章を書くのだというそのモチベーションの源泉は、だから、もっと崇高なものであることはもう間違いないわけで。
 
また、そのような意思、意志のピュアさに負けないくらい、実際、文章の細部構造もストーリーの流れも豪華絢爛で美しいと俺は感じます。「大正ロマン」っていう言葉は、いつ頃から登場したんだろ?大正時代にはもちろんそんな言葉は存在するはずはない。てことはだな、太平洋戦争後に、もしや、三島由紀夫豊饒の海によって作り出した概念なんじゃないのかな。大正ロマンっていうのは。
 
あと、登場人物が英語で話すシーンがバンバン出てくる。小説内に英文が混じることは豊饒の海の場合はないんだけど、三島由紀夫本人も英語はペラペラなようだし、俺が思い込んでいた、「英語はある一定ラインを超えると日本語が下手になるのとトレードオフでしか上達できない」という考えは、どうも撤回せざるを得ないようである。外国語に通じ、情報や考え方を吸収しつつ、日本語で世にも美しい物語を紡いでるお手本が三島由紀夫だ。
 
ストーリー一つ一つに説得力が半端ない。すごい本です。みんな、読んだほうがいいよ。豊饒の海。俺はマセマの数学の参考書をやって、あ、こりゃ、日本語ができるならマセマやんなきゃ損だわ、マセマがあることによって日本語は国際語になった、と思ったが、豊饒の海もそれに近い。文字通り命がけで書かれた本です。

『豊饒の海』を読みつつ、無職プーはさまよってます

三島由紀夫の『豊饒の海』を面白く読んでいるのは、三島が45歳で自決したことから、この最後の書が世の中に向けて書かれた遺書のようなものだと思うからです。
 
昔から、死を意識すると感情的に不安定になる傾向がありました。で、社会人受験に失敗し完全にプー太郎になった激ヤバな今、豊饒の海なんかに傾倒し、そのヤバさに対してさらに火に油です。
 
昨晩、寝ようと思ったけど、どうしても寢らんなくて、スマホYouTubeとか見てたら、完全徹夜してしまいました。午前中には特に用事もなかったことから、朝方から昼にかけてやっと少し寝ました。
 
午後には用事があったので、早めに用事の場所に向かい、そばの図書館で豊饒の海の続きを読み進め、時間になったので用事に行きました。
 
で、終わって、また地元に帰って、カフェで豊饒の海の続きを読み進めてるところです。
 
まだ第一巻の150ページ目くらいですが、メチャ面白いので、このまま突き進んでいけそうです。
 
今回この記事を書いてる現在も、もう充分社会的にはヤバいですが、前回の市ヶ谷のカフェ・ド・クリエでブログを上げてた時ほどにはヤバくないと思います。内容的には別段何を書いたわけでもないけど、状況が状況なんでね。平日午後に42の無職プーが靖国神社を一人で参拝した後、住宅街をほっつき歩いてたのでして。というわけで前回のブログはなかなかの衝撃作だと思うので、今後ももうしばらくこんな感じのブログの書き方を継続しようと思ってます。
 
エバーノートで自分が読み返すだけのための日記のなぐり書きみたいなことも、もう卒業しようかな。いや、なぐり書きではなく、正直かなりシステマティックに緻密に振り返ってるんです、実は。一週間、一ヶ月、四半期(3ヶ月)、一年、5年、一生のそれぞれに向けて、実現したい課題を明記して、その期間が終わる毎に、書き溜めた記録をまとめ直して、課題達成率を数字化して、次の期間の新たな課題を立てる、っていうのを継続してもうかれこれ6年以上になります。でもさ、死んじゃったら何も残らないわけだし、そんなことやってても。それより、読者を意識してリアルタイムで社会にメッセージを発信していくほうが、まだ意義がある。人生の目標も、出来事の記録も、課題達成率と反省も、ブログ上で書き進めていく方がいい。そう思ってます。これが実現するなら、このブログもかなり様変わりするだろうし、俺の人生自体もかなり変わっていく予感がします。
 
豊饒の海の読書に戻ります。豊饒の海自体の詳細な感想は、次回以降のブログで書いてみたい。とりあえず、今んとこ、既に大満足。筆致がすごい。特に好きなのは章の終わり方。章と章のつなぎ目、場面転換のタイミングで読者をグウと唸らせる日本語のきらめきに圧倒されてます。

物理の勉強の前に、『豊饒の海』を読もうとしてます

引越し準備作業も見通しがついてきたんで、ある程度まとまった時間を自由に使えそうだぞとなりました。
 
とりあえずひと汗かいてまたリフレッシュ、と、走り出しましたが、足が痛くって、すぐ引き返しちゃった。最近になって急に毎日走り始めたから、ここらで休息も必要なようです。
 
軽くシャワー浴びて、街に出て、さて何をしようか、と、メモ帳に向かい、あ、また何度目かの人生の曲がり角に差し掛かってるなと直感しました。
 
人生、時間は有限です。だから、「先に何をやるか」は、常に重要な問題です。
 
英語は毎日やるとして(と言いつつ今ちょっとサボっちゃってますが)、メインで進めていく対象を、物理学の学習にするか、物理の勉強を一時停止して三島由紀夫の『豊饒の海』を読むのを先にするか。物理か、豊饒の海かです。
 
で、豊饒の海を読むのを先にするという方向で、動き始めました。
 
ちょっと読み進めて、天皇制との関わりの深いストーリーに刺激され、ちょっとプチ旅をしたかったこともあり、電車に乗りました。飯田橋へ。で、靖国神社に参拝してきました。その後、歩いて、千鳥ヶ淵戦没者墓苑へ。残念ながらちょうど閉館の時間で、中にはいることは出来ませんでした。お堀を見ながら、持ってきていた弁当で早めの夕食。また歩いて、市ヶ谷へ抜け、いい感じのカフェ・ド・クリエを発見したので、今、ここでこの文章を書いてます。
 
10月の早い夕暮れに、市ヶ谷の街が暮れなずんでいきます。
 
豊饒の海を読んで、日本という国の成り立ちや今までの歴史的経緯などを学び、また三島文学で日本語運用技術や文章のテーマの選び方、生き方などもこれから学んでいきたいです。
 
本といえば、今までは井上ひさし一本やりで、そのように生きてきた自分自身に不満もありません。ですがここで、他の要素も取り入れていくことも、悪くないと思ってます。
 
次回のブログを書くときには、豊饒の海の読書が順調に進んでるといいなあ。読んだところまでの感想とか、書きたい。
 
引っ越しも近い。色々、変化のときです。

ジョギングが続いてます

引越し準備を、適宜リフレッシュを入れつつ、進めてます。
 
朝から荷物整理をしてて、昼頃には駅前に出て散髪、その後軽くジョギングして汗を流しました。ジョギングは昨日に続いて2日連続です。気持ちいいし、それくらいしないと荷物整理で頭がパンクしちゃうので、今後も引越し当日までおそらく続くでしょう。どんどん健康になる。
 
ジョギング後、汗が引いてから、また少し荷物整理をして、とうとう煮詰まってきたので、少し早めですが用事を済ます目的地に向け出発しました。電車と地下鉄を乗り継いで、今度の不動産業者さんの本社最寄り駅へ。今日の夕方から賃貸契約の重要事項説明などをしてもらいます。
 
早めに着き、ドトールにて、小休止。ここでこのブログを書いてる次第です。ああ、ドトールの空気がうまい。
 
落ち着いて考えれば、ビッグチャンスが到来してます。どフリーな状態で、物理学、化学、数学に向き合う時間こそが、俺が本当にやりたかったことです。もし、先日受けた社会人入試の結果が合格だったら、物理や化学にかけることができる時間が半年間に区切られてしまうところでした。必要な時間をたっぷりかけ、自学自習で勉強を進めていける、今の状況のほうが、理数科目の修得には、いや、負け惜しみじゃなく本当に、有利です。
 
運動、食事は本当に大事です。あと、人間関係。きちんとした食事を取り、適度に運動して、友人たちと過ごす時間を大切にしていく。そういう基本を大事にしながら、理数科目と英語をコツコツ勉強して、一般受験で次の志望大学にチャレンジする。それで、良いと思います。
 
明日も、どこかのタイミングでジョギングしたい。で、引っ越し作業をもっともっと進め、この際、持ち物や生活スタイルそのものも見直して、新居でミニマルな新生活をスタートさせたいです。