説明責任の行き届いた社会を目指して

大昔、生物学者になりたかった40過ぎが、今また再チャレンジ

言語活動とは体外に溢れ出た生殖行為のようなものだと思う

今回の記事は、あまり長くは書けないと思います。言語活動と遺伝などとの関係性を切り口に、ヒトという生物がどのように他種と異なっているかについて、普段考えてたことをちょろっと書きたい。
 
皆さん、遺伝という現象について、ご存知だと思います。ヒトの子はヒトとして生まれてきます。目に光を当てると、瞳孔は絞り込まれ、目に入る光の量をコントロールします。赤ちゃんが、周りから教えられて瞳孔を開いたり閉じたりすることを学ぶわけではありません。生まれつき、できます。これも、遺伝の一つです。身体かたちに限らず、運動、はたまた社会的行動などについても、親から、生まれつきいろんな形質を受け継いでいるのです。
 
しかし、教えられないとできないことも、たくさんありますよね。読み書きなどはその最たるものでしょう。また、その読み書きの能力を基盤にして、哲学を学び、ヒトは自分の生き方を一生模索し続けます。
 
ここで、生物学が好きな俺は、考えちゃうんですよね。DNAの遺伝情報によって生まれつき親から受け継いで身につけている能力と、後天的に本を読んだりして身につけた哲学との間に、どういう根本的な違いがあるのだろう?と。
 
人間社会に広く流布している、言語によるメッセージは、体外に溢れ出た遺伝情報のようなものではないでしょうか。
 
DNAの遺伝情報が、転写、翻訳によってタンパク質となり、様々な代謝が行われる。はたまた、ヒトが図書館で本を借りて、読んで、納得して、そのとおりに行動してみる。どこが違うんだ。
 
「獲得形質は遺伝しない」という法則があります。生まれたあとで身につけた形態や能力などは、遺伝しない、という意味です。俺は、そもそもこれには懐疑的で、一部、遺伝するんじゃないかと思ってますが、それはそれ、置いといて、獲得形質は遺伝しないものとします。でも、ヒトだけは、生まれたあとで学んだことを、他のヒトに話して伝えたり、本に書いて残すことができます。それを参考に、後世のヒトが行動を変えることが可能です。また、人生の中で迷いが生じた時、ヒトは、以前に生きたヒトが同じ迷いに対してどう考え対処してきたか、本などの記録を探すこともできます。獲得形質が、遺伝してるじゃないですか。これが、ヒトとその他の生物を区別する最大の性質だと俺は思ってます。言語を介して、獲得形質を遺伝させることができる生物。まあ、「遺伝」という言葉はすでにふさわしくないことは明らかですが。だから、なんですか、えーと、「学んだ経験を、言語を介して後世に役立つように蓄積することができる生物」とでも言いましょうかね。
 
そう考えていくと、言語活動というのは、かなり、生殖行為とかぶってくると、思うんです。遺伝子の情報により、身体の形態や本能が影響を受ける。読んだ本により行動が影響を受ける。影響を生じるという観点では、同じくらいの重大さです。図書館→本→読む→変化。DNA→RNA→タンパク質→代謝。そういう構造も、だいたい同じ。言語活動、イコール生殖行為。と言ったら、言い過ぎでしょうか。どうも俺、そう思うんだよね。
 
なお、ヒト以外でも、そのように、何らかの方法で獲得形質を遺伝させることができる生物がいないとも限らないとは思います。イルカとかカラスとか、どうですかね。三次元の空間を自由に移動できる生き物なんで、脳の発達の仕方も桁が違うんじゃないかな。この先1万年くらいはヒトのほうが優勢でも、なんかのきっかけでコミュニケーション能力に大きな改善が発生すれば、どうなるかわからないと思う。また、ヒトからの働きかけでそういう能力を開発することも可能なんじゃないですか。
 
今回の記事は、ここらへんで。