説明責任社会を目指して

大昔、生物学者になりたかったアラフォーが、今また再チャレンジ

シュレーディンガー著『生命とは何か』を読んで考えたこと

シュレーディンガーの『生命とは何か』を、読了しました。その感想文を書きたくて、今、このブログを書いています。
 
俺、40過ぎて会社を辞めて、大学に入り直そうとしてる最中なんですがね。昔、中退したまんまだったんで。分野は生物学っす。で、9月10日の英語試験と面接を突破すれば、来年4月からの学籍が発生するっていう局面です。
 
面接対策も兼ねて、「京大 生物科学の会」っていうホームページの推薦図書リストを片っ端から読もうとしてます。で、そういう流れの中で、昨晩、シュレーディンガーの『生命とは何か』を読み終わったんです。
 
そうですね、文章は硬めでしたが面白かったです。デカルトの話が最初の方にチョロッと出てきましたね。俺もデカルトの『方法序説』は大好きなんで、共感を持ちました。だから、要は、本当に確実なもの以外は議論の前提として扱わないよ、という発想。それをきちんと守りながら、物理畑出身らしく骨太な論理展開をゴリゴリ進めていくその姿には、俺は尊敬の念しか持ち得なかったっす。
 
後半の方で、やっぱり、数式が出てくるんですが、これらは、今後勉強していけばいずれわかるんだ、と思わないとスッキリはできないです。その点、やはり、まず生物学から好きになったような読者層にとっては辛口の本です。物理・数学の高校レベルの良い参考書との出会いに恵まれてなければ、読み進めるのが嫌になっちゃうでしょうね。数学ならマセマ、物理なら漆原先生の『面白いほど〜』から入ると、そこらへん、光が見えますよ。と、これは俺のオススメでした。
 
あと、エピローグで、なにやら哲学談義みたいな文章が展開されるんですが、こういうのも俺、嫌いじゃないんで。面白く読みました。「私」とは一体なんぞや、みたいな話です。で、解説がまた面白かった。そもそもですね、この「エピローグ」、よく翻訳できたなあと、翻訳者の力量もすげえなあと思いますね。哲学的な内容のおそらく英語の文章を、完全に理解して、自然な日本語の文章で置き換えちゃうんだから。で、この翻訳者の岡先生、鎮目先生が、これの訳書としての現代的意義をも真剣に考えてくださってることが、解説を読むとよくわかります。
 
シュレーディンガー、また、聞くところによるとボーアとかも、第二次世界大戦前後頃から、物理畑から生物畑へと乗り込んできたそうですね。このように、物理から生物へという流れは、確実に歴史を積み重ねてきてます。DNAの二重らせん構造を発見した有名なワトソン・クリックのクリックの方ですね、彼も、もともと物理学者だったようで。数々の的確な業績は輝かしく、素晴らしいと思います。一方、ワトソンは、もともと野鳥観察を専門にしてた、みたいなことが、彼の著書『二重らせん』にちょこっと出てきたように記憶してます。もともと、もろに生物学を専攻してて、分子生物学の世界を開拓してきた人物ですね。
 
で、生物学を最初っから専攻してて、分子生物学をやろうとした場合に、往々にして問題が生じるというのが現代の大問題ではないかと思うんです。俺の苦しみもここらへんから出てきてると思う。というのは、日本の理系の世界では、大学に入ると、高校までで日本語による各科目の勉強は済んでるはずだというふうに扱われ、英語のテキストを読み、英語で論文を書け、というプレッシャーがはっきりとかかり始めます。高校で物理を選択せず生物を選択した人間は、日本語で書かれた良質な物理・数学の参考書をやる余裕を、徹底的に削り取られてしまう。そして、大学生・社会人向けの物理の教養書みたいな、薄っぺらくて値段が高いだけのリソースにちょっと手を出しては挫折し、分子生物学がわからないまま、卒業できる人は無理やり卒業していき、その後の行き場を失う。だって、何もわかってないんだもん。…ちがいますか?で、これ、日本だけじゃなくて、世界的にも多かれ少なかれ似たようなことが起こってるんじゃないかな、もしかして。
 
シュレーディンガーの本の話に戻ると、たしかに、物理から生物に移ってきたシュレーディンガーに、別分野に移った勇気と苦労に共感はします。しかし、俺はもともと生物学が好きで、そして分子生物学にトライしようとして物理・数学をやり直そうとしてる。生物から物理へ、というジャンプの仕方をしてるんです。その点、事情が違うので、俺は俺の獣道を切り開いていくしかないなと思いました。