説明責任の行き届いた社会を目指して

大昔、生物学者になりたかった40過ぎが、今また再チャレンジ

天文対話を読んだことで、高校物理の学習がスムーズに

ガリレオの『天文対話』を読んだことで、高校レベルからの物理の学習が今んとこスムーズに行ってて、いい感じです。
 
俺、生物学志望の大学中退者で、このままじゃイカンと仕事を辞め、この前社会人入試を受けてその結果待ちなんです。
 
受かるにしろ、落ちるにしろ、好きな分子生物学を今後極めていこうと思ったら、物理もきちんと勉強しとかないといけない。で、この合格発表直前のフワッとした時期、『天文対話』を読んだんですね。昨日読み終わりました。
 
で、高校の物理の検定教科書を数年前にぐるっと見たのを、また最初っからやり直す作業に、昨日の午後から取り組んでいるのですが。
 
天文対話を読んで、物理という学問分野への取り組み方、心構えみたいなものが、心のなかにすっくと立ち上がってるような気がします。っと、大げさかな。でもでも、本当に。
 
天文対話を読む前の俺というのは、物理という分野に対してどこまでもお客さんで、最低限の努力で理解し身につけたいというそれだけのヤツだったと思います。で、そこから、物理現象というものに対して、「簡単であってほしい」という期待が生まれ、で、その思いが心のなかで悪い意味で発酵しちゃって、「自然現象とは単純であるべきだ」という強い思い込みを持つようになっていた。
 
でも、自然現象とは人間の思い込みで左右されるものではないんです。虚心坦懐に、まず自然現象を観察し、実験し、そこに法則を見出していくという姿勢こそが必要なのです。自然現象は単純であらねばならないという自分の期待を満足させようという姿勢は、それこそガリレオを苦しめたスコラ哲学者と全く同じだったんです。
 
大学数学がわからなかった理由も、根っこは一緒な気がします。微分積分から始まる大学数学は、微分積分というのがニュートンが力学を研究するために自作した数学ツールだったこともあり、ギリシャ哲学的な、いわゆるフィロソフィーといいますか、純粋な探究心だけではついていけないんですよ。その概念は、数学的に美しいか?ということだけではなく、その概念は、「役に立つか?」という、ギリシャ哲学とは相容れない要素が、微分積分を学ぶ際には必要になってくる。「物理学への応用」ということと二人三脚で、大学数学というのは学習を進めていく必要があるんだと思う。
 
例えばこの世界の空間が三次元であることなど、本当に偶然そうなだけだと思うんだよね。四次元でも二次元でもありえたでしょ。でも、観察や実験で確かめる限り、三次元だよね。だから、現象が先にあって、それを学んでいくという、それが物理。今、力学やってるけど、運動の三法則とか、今までは覚えるのがめんどくさいなあとか思ってたけど、自然現象を観測したらそのような法則にまとめられるよ、というのは本当にすごいことだと今は思う。天文対話に書かれていたスコラ哲学者の考え方、ホントにひどかったから。アリストテレスを盲信して、めちゃくちゃに考えを進めてこんがらがってた。そこを突破したガリレオは本当に素晴らしいし、その苦労の一端を彼の著書で知ることができたのは俺にとって非常に意義深いことでした。特に、スコラ哲学者のそれまでの考え方の記述が、反面教師として参考になってます。
 
合格発表まであと少し。プレッシャーがすごくって、マジで今の俺はまさにまな板の上の鯉というヤツです。そんな中、また一つ、いい勉強ができてて、感謝、感謝です。さあ、明日も頑張ろう。