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2021/10/13水の日記:『豊饒の海』第二巻を読了しました。その感想文

用事もなく、今朝も早くからは活動できなかったのはここ最近の常であり、この日常が俺は嫌いです…。
 
ともあれ、読みかけの『豊饒の海』第二巻の読書に取りかかり、なんとか、夜になって、読了することができた。
 
今日はこれ以外のことはしていないので、この日記で、この第二巻の感想を書いてみたい。と言っても、非常に緻密に練られた小説であり、しばらく経ってからでないと頭はまとまってこないとは思う。が、読書直後のタイミングでしか書けない感想文というものもあるだろう。それを書く。
 
生まれ変わりという現象が人物設定の根幹に含まれているのを、俺は笑えない。本当に死んでしまった三島由紀夫には生まれ変わりということを大真面目に書く資格があると思う。ちょっとネタバレになるが解説すると、第一巻の主人公が、生まれ変わって第二巻の主人公になってるんだよ。
 
第一巻の絢爛豪華な文体が、第二巻ではもうちょいなんというか静かになってきてる気はするけど、基本的、根本的には変わってはいないと感じた。第一巻では金持ちの生活をきらびやかに文章表現するというのがこの本を読むときのお楽しみの一つだったけど、第二巻では人間の誠意の表れというものをまっすぐに読者の心に響かせることが主眼だから、この小説のふさわしい読み方も自ずと変えていくべきなのだろう。三島文学は多彩なのだ。
 
第一巻のほうが好きという人、多いと思うけど、俺は、第二巻もこれはこれで好きです。第一巻の飯沼と第二巻の佐和の対比なども見事で、どっちだけが好きとかじゃなく、続きものとして両方を同時に鑑賞する組曲のようなものだと思う。これでまだ半分で、第三巻、第四巻も残ってると思うと、随分俺も贅沢な楽しみをしてるなあ。
 
極論に走っていく若者の姿が、リアルに感じられました。主張を持つということは、多かれ少なかれ今まで自分を構成してきたしがらみとも向き合わなければならない局面も必然的に出てくるわけで。ジブリ映画は必ずハッピーエンドであるように、三島文学の主人公は鬱屈したまま崩れ落ちていく人生は歩まないのかな?お約束的な清冽さを備えた人生を送ってくれるのが読んでて清々しい。そのような人生をこそ小説で描くことが文学の役目なのだと三島は考えていたのではないか。
 
俺はもう二十歳ではないから、若い時に読むのと読み方も変わってくるけど、納得の行く生き方をあくまでも追求する飯沼勲には感銘を受けてます。
 
朝寝坊してる場合じゃないよ、ホント。俺、しっかりしないと。