説明責任の行き届いた社会を目指して

大昔、生物学者になりたかった40過ぎが、今また再チャレンジ

三島由紀夫の『文章読本』感想

三島由紀夫の『文章読本』を読み終わりました。

読書直後の状態で感想文をしたためておきたく、このブログを書いています。

小説ではないので、あんまり話の内容についての感想みたいなことは書きようがないのですが。

そもそもこの文章読本を読もうと思ったきっかけが、最近『豊饒の海』を読んで感銘を受け、同じ作者による文章読本を読むことで、さらに豊饒の海についての理解が深まることを狙ってのことでした。

その狙いは、まあ達成できたかと思います。

ずっと前に『金閣寺』も読んだことがあります。

金閣寺豊饒の海文章読本と並べて考えて、三島由紀夫という作家は、その時々での気分がもろに文章に表れるなあと感じます。

豊饒の海では気持ちの高まり、たかぶりを感じました。それと比べて、文章読本での三島由紀夫は、いたってシラフです。

シラフなので、三島の考えが落ち着いた文体の中でわかりやすく明確に表現されており、この文章読本の文章そのものが名文の見本のような気すらします。

薄々感じていたことをこの本ではっきり指摘されて完全に意識し始めたこともあります。文章というのは、文体とかも大事ですが、内容としてどんなことを扱うかということも同じかそれ以上に大事だということです。自分は世の中に対してどんなメッセージを発信したいのかということが、書く文章を形作っていく。当たり前のことですが、表面的な文芸、テクニックにばかり気を取られていると、その当たり前のことがついつい頭からスッポ抜けていく。

で、発信したいメッセージというのは、多分に、歴史的経緯があると言いますか、時代とリンクしているものなんだと思います。そこらへん、理系(生物学系)を志してきた俺としては、歴史学の素養が足りてないために、自覚しづらい。弱点です。歴史的視点を、今からでも遅くない、しっかり勉強して、歴史の流れの中での自分の立ち位置を把握したいです。そのような理解こそが、確実な次なる一歩を踏み出す土台となります。歴史の理解がなかったために、今までの俺は、持論のわずかな正当性にこだわり続け、歴史的経緯を踏まえた受け入れ可能な表現というものを全くしなかったために、受け入れられず、なぜ自分は周りから理解されないのだと常に不平不満を抱え込んでばかりだったのだと思います。