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『細雪』上巻の感想:美しい日本語で、家族・親族関係について静かに考えさせられる本。が、ちょっと物足りなさも

今、谷崎潤一郎の『細雪』の上巻を読み終わったところ。

読書直後のタイミングで感想文を書き留めておきたく、このブログを書いている。

 

日本語文化圏において、日本国憲法と同じような役どころを担ってるような気がする。

この細雪って、太平洋戦争末期に執筆されたということで。憲法と、タイミング的にもかぶってる。で、文体とかも、その当時としては新しかったものが、みんなが競ってこの細雪での谷崎が編み出した文体を真似て、学んだんじゃないかな。そこに、谷崎の『文章読本』を読み合わせていって…。みんな考えることは同じでしょ、令和の現代に俺がやっと追いついてきて、同じことしようとしてるわけだが。

日本国憲法も、文体が、その当時としては特徴的だったと思うけど、何度も繰り返し読まれ、学習、考察の対象となってきたために、その後の「当たり前」となり、日本文化の中枢になった。同じように、細雪も、太平洋戦争が終わって、ようやく時代が落ち着いてきて、また一からやり直そうという多くの日本人の傍らにあって、みんなこの本を読んで楽しみ、この谷崎の文体に親しみ、自分のものとして吸収していったんじゃないかな。

 

内容としては、家族・親族関係の細やかな情念の流れが、精緻な文章で美しく表現されている。これが、今の俺にとってはタイムリーで、というのは、姉親子との関係が、俺の一人暮らしにより変化し、さらにコロナが追い打ちをかけ、悩んでいたところだったから。この細雪をよく読んで、今後の自分の身の振り方を考える参考にしよう、と、思いつつ読み進めている。

 

なにしろ日本語が良い。隅から隅まで気合の行き届いた完成度の高さは、この点は時代を感じる。現代的ではなく、この時代特有のもので、俺の知ってる範囲内では例えば幸田露伴の『五重塔』とか、一言一句もないがしろにされてなくって、良い意味で読んでて息が詰まるような思いをする。それとよく似た感じ。現代は、ある程度アソビもあって、リラックスしてることも評価の対象になってると思うんで、五重塔みたいな文学作品はそういう土壌では生まれない。細雪もそうである。

 

あと、関西の土地柄についての描写も、ほとんど首都圏でしか暮らしたことのない俺はすごい刺激的で、楽しく読んでいる。

 

文豪の大作、と思って肩に力を入れて読む本ではなく、案外カジュアルにスーッと読める本だと思う。かといってじゃあエッセイ本のようなものかと言えば、そんなに軽くない。細雪を読むという行為は、一冊の本が新しい「当たり前」を作り出した現場に立ち会うということを意味する。

 

少々気が引けるが、マイナスなことも、勇気を持って書こう。

この細雪を読み始めた経緯として、先日社会人受験に失敗したことを契機に、人生を考え直すためにこの際大作を読もうと、まず三島由紀夫の『豊饒の海』を読破し、さらに三島文学を訪ねて『文章読本』も併せて読んで、とても勉強になったのだった。そして、じゃあ次は谷崎だ、と、細雪→谷崎の文章読本を、ということで、今、細雪を読んでいる。勢い、豊饒の海細雪を比較してしまう。

で、豊饒の海で扱われていたテーマの重厚さと比べると、…ちょっと、細雪で扱っているストーリーが、そこまで切実に読者である俺に価値観の再考を強いることはないのが、物足りない。細雪に、そのような要素を求めること自体が間違いなのだとは思う。新しい文章のスタンダードを生み出すということが細雪の担った時代的使命であり、そして、細雪は見事にその役割を果たした。そして、日本語が「細雪化」した。で、その結果として、…現代において細雪を読む意義自体がですね、日本語が完全に「細雪化」してしまった結果、これを読み返す意義が薄れてきてる。日本語の生成発展の歴史を紐解くという学問的動機のためなら、細雪はそれこそ必読書だろう。しかし、普通に読む分には、全く当たり前に感じる文章であり、谷崎が細雪によって日本語を変えたまさにその成功によって、細雪は「普通の小説」になってしまった。その点、『豊饒の海』は、扱うテーマに特徴があり、そのテーマの重要性は時代を越えるものだ。だから、昔も今も読んでカタルシスを感じる、文学的重要性はいささかも失われていない。

 

…と、まあ、ゴタゴタ言わず、中巻、下巻も読んで、また感想をブログにアップするつもりです。