昨晩、谷崎潤一郎の『細雪』上巻を読了。読書感想文をブログに書いた。
で、今日、ちょっぴり早起きできて、朝からずっと細雪の中巻を読んでて、今、読み終わったところ。
今日の振り返りブログを、中巻の読書感想文と兼ねようと、この文章を書いている。
中巻では自然災害の描写が特にボリュームがあり、鬼気迫る状況が伝わり読んでて怖くなるくらいだった。
ただ、太平洋戦争末期に発表するには、もっと別の、例えば空襲の恐ろしさとかを書くほうがいいんじゃないですかなどと思ってしまった。だから、テクニックの問題ではなく方針の問題というか。そこでふと俺思ったんだけど、この細雪を担当した編集者が、戦時中ということでしっかり仕事ができる状況になかったんじゃないか。また、もろ戦時中なわけだから、特高警察による検閲とかもバリバリ受けて、メチャクチャな干渉とかももしかしたらあったりして。「お国が大変な時期なんですから時代にふさわしい内容でないと困ります」みたいな…。
あと思ったのは、ほら、日本文化って、太平洋戦争を境に一旦ぶった切られてるでしょう。戦後のベビーブーマー、団塊の世代とそれ以前の世代とが、別扱いになってるというか。そのぶった切られてる切り口のあたり、そのミッシングリンクを見てるような気がする、細雪を読んでると。ぶった切られてるというのは、例えばお笑い芸人でいうと、令和3年の現在、まず大御所として真っ先に名前の上がるビートたけしとかタモリとかは団塊の世代でしょ。で、そのすぐ上の世代からが、パタッと思い浮かばなくなる。流行歌でいうと、ちょっとというかかなり昔になるけど、「戦争を知らない子供たち」っていう曲があった。歌詞が、まんま、戦争が終わる前までに生まれた人たち全員をディスってる。と俺は思った。気になった方、ちょっとYouTubeとかで一回聴いてみてもらえます?…俺は、これを初めて聴いた時、ちょっと不快だった。…けどねえ、例えば細雪の中でも、上巻だったか中巻だったか忘れたけど、「半島人」っていう単語が出てくる。登場人物の会話の中で、普通に。朝鮮半島に住んでる人、という意味で、併合されて同じ国の人間になったんだから日本人と分け隔てしないで仲間としてそう呼んだそうである。けどさ、やっぱりやったことは侵略なのであってみれば、文章の書き手がそのような意識でいることはやはり問題であって、反省が必要なんじゃないかな。時代が時代だった、欧米列強も同じことをしていたから、というのは、言い訳にはならないと思うんだけど。で、「戦争を知らない子供たち」で、戦後生まれを汚れのない天使のように歌い上げてるのは、その根拠として、終戦までの日本の教育を受けて害されることがなかった、だから、団塊の世代からが本当にまっとうな人間足りうるんだ、と、そういう主張をしてるんじゃないかなと俺は思うんだけど、その主張に、うーん、五分の理があるでしょ。
ここまで書くと、微妙に自己否定をしなければならなくなる。俺、世代的には団塊ジュニアど真ん中なんだけど、実はそれよりひとつ上の世代に片足突っ込んでる。というのは、母親は団塊の世代なんだけど、父親は1945年3月生まれ。だからギリ戦中派なの。中学校の教師であった父方の祖父は、どのようなつもりで長男である父を産んだかを考えると、戦争が終わった、さあ新しい日本を作るぞという単純明快な団塊の世代の家庭環境と、違うわけよ、全然。その違いは教育方針にも影を落とし、祖父母の教育による父の人間形成にも、ひいては父による俺への教育方針にも、これは大きく影響していることは、間違いない。俺はそう思う。
戦争には負けたけど、それまでの日本文化のすべてが悪かったわけではない。良いところもたくさんあった。その良いところは、大切に引き継いでいくべきである。もちろん反省すべきところがあり、敗戦を機にいろんなことを一旦キャンセルして新しく始めるのもいいだろう。けど、全てをキャンセルすることは、俺はしたくない。祖父が父を産んで育てようとしたことすらキャンセルはできない。やはり、過去に立脚して、現在が存在するのであり、未来へとつながっていくんだよ。
細雪は、太平洋戦争までに到達した日本文学の粋が読める貴重な本だと思う。繰り返すようだが、いろんな文化が、戦争前の記憶を簡単に忘れようとしすぎてる。そのぶった切られてる切り口のちょうど捨てられる方の側の断面に見えてるのが、細雪だ。