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谷崎潤一郎の『文章読本』の読書感想文:みやびのためにあえて文章をあいまいなままにするべきとは俺は思わない

谷崎潤一郎の『文章読本』を、今、読み終わった。読了直後のこのタイミングで、読書感想文をここに書き残しておきたい。

 

読みながら、高校時代に古文の授業をよくサボっていたことを後悔した。優美、優雅という要素を谷崎は主張するが、そのみやびとは、日本の古典を学ぶことによってこそつちかわれる、とのこと。合ってるかな、この理解で。

 

でもねえ、俺が古文が嫌いな理由にも、思いが及んだよ。あえてあいまいなままにするのがみやびだとするなら、俺、そういうの嫌だわ。言語というのも不完全な道具で、常に完璧に間違いなく事象を表現し切ることは不可能なのは重々承知で、それでもその表現のパーセンテージを可能な限り高めていくことこそが、文章術の一つの方向性だと思う。俺は、その方針で今後も修練していきたい。繰り返しがしつこいからって、死にゃあしないって。ちょっと不愉快な繰り返しがあっても、物事がより明確に伝わるほうが良い。接続詞も、大好き、俺。で、そういう発想、源氏物語とかと真っ向から対立するんじゃないかな。場合によっては、谷崎文学とも俺は深いところで対立してるかもしれない。

 

あと、この文章読本、まさにこの本の文章が、さすが、平易でわかりやすくて、名文を堪能した。

 

発達した敬語により文章の主格などを大幅に省略できるという機能など、深く納得の行く日本語の分析は本当に秀逸。大変勉強になりました。