説明責任社会を目指して

大昔、生物学者になりたかった40過ぎが、今また再チャレンジ

2021/11/13土の振り返り:朝永振一郎著『物理学とは何だろうか』の感想。ニュートン以降、「物理のために役立つ数学」が登場したのであり、微積分から先はギリシャ哲学的アタマから切り替えなきゃダメ

昨日に引き続き、朝永振一郎著『物理学とは何だろうか』を読み進め、今、読了した。

このブログ記事にて、読書感想文を書いて、今日の振り返りブログにかえたいと、今、Macを開いたところである。

 

熱力学のところあたりから、出てくる数式の意味がわからず、苦戦した。が、なんとか読み通してみて、物理学という学問分野の雰囲気くらいはなんとなくつかめたような気になっている。

 

最近ぼんやりと感じていたことで、この本を読みながらだんだん確信に変わってきたことがある。ニュートンが力学のために微積分を開発した頃から、数学というものの性質が変わってきたんじゃないか。物体の運動を始めとして、物理現象を記述するための道具として、「役に立つ」数学というものが創始されたのは、ニュートンを持ってして初なんじゃないかね。まあもともとそういうファクターがゼロではなかったのだろうが、やっぱし、ピタゴラスとかアポロニウスとかさ、芸術的な要素が強かったじゃん。日本の和算だって、算額とかいうのがあってさ。複雑な数学の問題を解いて、その解法をきれいに描いて神社?とかに収めてたりしたらしい。で、世界はどうか知らんけど、日本の学界が、いまだにそういうのを引きずってる気がするよ。で、それをまともに相手してたら、高校レベルから大学レベルにはどうしても脱皮できない。微分積分という分野から、ドーンとアレルギーになっちゃう。というのは、微分積分というのは哲学愛好者の遊びからではなく力学を発展させるための道具として生まれてきたものだからだ。実数の概念とかも、その哲学的背景が違う。力学的分析に際して無矛盾なように設計されてるかどうかがまず問われるわけで、そういう発想も一緒に学んでいかないと、絶対に理解することができないわけよ。だから、今の日本の高校の教育制度で、学校で物理を選択しない人は、よっぽど別に物理を勉強する機会がないと、理系で大成することは100%不可能だ。だから、一番多いのは化学生物選択者。俺がそう。あと、地学を絡めた選択者も危ないだろうな。

 

まあいい。ちょっと年は食っちゃったけど、こうして朝永先生の本にも触れあえてるし。時間はかかっても、こうやって正当な物理学教育を自分に施していけばよろしい。

 

もう一度、受験生に混じって大学受験にチャレンジするに際し、受験勉強前の心構えをするという、この本を読む目的は、まずまず満たされたものと思う。ただまだまだ充分じゃないな。欲を言えば、もっと色々読むべきだと思うけど。けど、この本の熱力学の話とか、わかんなかったし、そこらへん、早く高校の教科書とか参考書とかで復習したいよ。さっさと受験勉強を始めるべきだ。