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大昔、生物学者になりたかった40過ぎが、今また再チャレンジ

暗記教材を『グレート・ギャツビー』から『デイヴィッド・コパフィールド』へとチェンジ

昨晩も、最近ずっとやってた『グレート・ギャツビー』っていうアメリカ文学の小説の原文の暗記作業の続き。有名なパーティーシーンにちょうど入ったところ。

で、やってたんだけど、考えて、考えて、全く予想してなかった方針を打ち出した。『グレート・ギャツビー』暗記作業を、このパーティーシーンを覚えきったら一旦中断し、イギリス文学の小説『デイヴィッド・コパフィールド』の暗記作業を新たに始めよう、というのがその新しい方針である。

若くハンサムなフィッツジェラルド時代の寵児となり実際パーティーに明け暮れ、その体験を元に書き上げられたグレート・ギャツビーという小説の、俺の中での優先順位がだんだん下がってきたのである。フィッツジェラルドのようないけにえを消費し続け商業的に膨張し続ける、アメリカ文化の悪い面に、だんだん嫌気が差してきた。これ、もし俺が若いときに実際アメリカに行って生活したことがあれば、その実体験を元に、もっと深くて広いアメリカ文化、ただ若さをもてはやすだけではないアメリカ中高年の活躍ぶり、などを知ることができたかもしれない。グレート・ギャツビーとセットになった、疲れた魂の安息の場所のような文学作品も見えてくるのかもしれない。でも、俺はアメリカに行ったことがない。代わりに行ったことがあるのはイギリスである。

俺は英語のラジオニュースを、わからないながらも頑張って毎日聴き続けているのだが、わからないながらも好みがはっきりしてきてて。アメリVOAよりも、断然イギリスBBCなのである。本当に親近感が湧く。ニュースの編集方針が好きだ。アメリカは、広すぎる。その発想法も日本と違ってて、それが苦痛なのである。例えば、これ、間違ってるかもしれないんだけど、この前、マイアミでマンションの崩落事故があったとき、アメリカ各社のラジオでよく登場した単語が、「パンケーキ」。間違ってたらごめんなさい、なんか、よくわかんなかったんだけど、崩落したマンションを形容する言葉として「パンケーキ」って言ってたんじゃなかったかな…。もしそうだとしたら、ちょっとリラックスし過ぎなんじゃないかと思うんだよね。だって、人が死んでるんだよ。マンションの崩落で、人が押しつぶされて。もっと言葉を選ぶべきだと思うんだけどな、俺は。でも、アメリカ的発想では、国が大陸の右と左にまでまたがってて、自然災害等はたいていどこかで起きているのが当たり前であり、そういう毎日の中で生き抜いていくためには、どんなにメチャクチャなニュースに対しても「リラックス」しているということが非常に非常に重要、ということなのだろう。理屈の上ではわかるのだが、どうも、このリラックスという哲学を貫くために犠牲にされている諸々が、俺は、気になってしまう。

その点、BBCのニュースに対しては、そういう違和感は感じない。イギリスは、日本とだいたい同じ大きさの島国で、歴史も長く、さらにデカイのが俺はイギリスで生活した経験があるということ。これらを勘案して、アメリカ文学ではなくイギリス文学の大作をこそ読むべき、と、大きく方針を転換する。

しばらく前から、『デイヴィッド・コパフィールド』の翻訳は岩波文庫が良いか新潮文庫が良いか、などの疑問が先回り的に俺の意識に上ってきていた。このチャールズ・ディケンズの長編小説を、優先順位一位の暗記教材に決めた。

日本語の小説の読書においてやってきたことと同じようなことをしなければ、日本語と同じように英語を運用する能力は身につかないと思う。となると、井上ひさし星新一の本を数多く読んで、例えば「井上ひさしならどう考えるか」という視点を頭の中に構築する、みたいなことを、英語でもやる必要がある。フィッツジェラルドグレート・ギャツビーしか有名な作品がなく、一方ディケンズは他にもたくさん読むべき作品があるので、俺のニーズに適っている。すなわち、「ディケンズならどう考えるか」を英語で思考する、ということである。

 

ギャツビーも大好きだ。パーティーシーンの暗記は丁寧に完遂しよう。そして、パーティー後、俺は俺の道へと進む。