絶版になってる岩波文庫版をAmazonの中古で入手し(割高だったが)、今、最終第5巻を読み終わったところ。読み終わった直後のこのタイミングで感想文をしたためておこうと、マクドナルドに飛び込んだところである。
エミリーの発見とアグネス救出作戦とが立て続けに起こり、タイミングよくどちらもベストを尽くしきるというストーリーだが、人生では往々にしてエミリー発見とアグネス救出作戦が完全に同時に起こり、どっちかを選ばなければならなくなるものだと思う。もし同時に起こったら主人公はどっちを選ぶかと想像してみても、どっちを選びそうかが定かではない。覚悟の決まり方がそこまで深くはないと思った。
ハムの死をペゴティーさんに黙ってるという行為も、問題があると思う。ペゴティーさんや子守のペゴティーに対してやはり優越的立場を保ち続けているのが、そういうのが階級社会の固定化に協力してるのであり、公平でないと思った。
しかし、このような長大な話を大団円に持っていくストーリー展開は非常に感動した。以前別の記事で書いたが、ユライア・ヒープの描写は本当にひどい。が、そこに目をつぶれば、ラスト近くに牢屋の模範囚としてユライア・ヒープを再登場させるというアイディアは俺にとって奇抜で、びっくりしつつも、深く納得させられた。これが人生というものだよ、と、ディケンズに優しく教えられたように感じた。
親子関係が子供の行動に及ぼす影響については、この小説に限らずおよそ人間たるもの最も関心のあるテーマの一つであろうが、それにしても『デイヴィッド・コパフィールド』の描く親子関係は激しくも的確だと思う。スティアフォースのお母さんとダートルのラストのやり合いは目を覆いたくなるほどだった。甘やかされて育ったスティアフォースはその人格の欠陥ゆえに、誰からも愛されることはなかったのではないか。だから、美しいエミリーに、その満たされない心を満たしてもらおうと激しく思い、たぶらかしたのではなかったか。だから、たぶらかしじゃなくて本気だよね、スティアフォースにとって切実な欲求だもん、満たそうとしてるのは。
また、ユライア・ヒープも、あんなに母親に深く「しがない身でいなさい」とか吹き込まれてたら、そりゃ変にもなるって。マジかわいそう。ラスト近くでトラドルズのセリフで彼へのフォロー、状況次第で人はそうなってしまうものだよ、みたいな箇所があるのはまだしも救いだ。本当に、実に悲しい話だが、母親が亡くなれば、ユライア・ヒープもその後の人との出会い次第で人生がいくらでも変わっていくものと思う。その点、主人公は両親とも早くに亡くし、親に対するイメージ自体は自由なので、スティアフォースやユライア・ヒープのような苦労とは無縁である。そのメリットを、主人公は、また、著者のディケンズは、わかっているか。
愛憎関係では、このくらいかな、感想としては。あと、主人公が速記術を身につけ、その後の運命を切り開いていくというのは、ディケンズの実体験なのかな、面白いと思った。現代で言えばタイピングがそれに当たるのかな、でもタイピング技術をマスターするのは多くの人がやってることだから、その観点から昔より現代のほうが進んでるって言えるのかも。
その他、法律用語などなど、面白かった点たくさんあるけど、いたずらにこの記事を長引かせるのもどうかと思い始めたんで、今回はここらへんで。何しろ名作であることに間違いはない。けど、なにぶん古いんでね、文学史の知識や考え方などが少しでもあれば、楽しみ方もぐっと豊かになってくるのかなとも思った。