説明責任の行き届いた社会を目指して

大昔、生物学者になりたかった40過ぎが、今また再チャレンジ

中断してた『グレート・ギャツビー』暗記作業を再開

2021年の年末で、『グレート・ギャツビー』暗記作業を、目標にしてた第3章冒頭のパーティーシーンまでやり切った。で、大晦日の夜から、『グレート・ギャツビー』は中断し、新たに『デイヴィッド・コパフィールド』の暗記作業を開始しよう、と、方針を立てた。で、まずは翻訳本を通読してストーリーを頭に入れようと、すったもんだの末、新潮文庫版と絶版の岩波文庫版を両方入手し、結局は岩波文庫版の方を、長かったが、読み終わった。読みながら、考えがまた変わり、やはりやりかけていた『グレート・ギャツビー』を、最後まで暗記し切ろう、『デイヴィッド・コパフィールド』暗記はその後からでもできる、と、思うに至った。

アメリカ文学を否定して、英文学に期待をかける、という考えは、甘ちゃんであり、そんなに両方ともチョロくない、と、反省した。

ただ、このタイミングで『デイヴィッド・コパフィールド』を翻訳でも読んだことは、無駄にはならないと思った。アメリカとイギリスは複雑に相互依存しているんだと思う。文学においてもそのような関係があるのではないか。アメリカ文学に薄っぺらさを感じて英文学に手を出すというのは英米文学あるあるで、英語を学び始めた人、またはアメリカ人やイギリス人本人たちも、そのような心の動きを経験するものなのではなかろうか。

もうあんまりガタガタ言わず、とにかく暗記作業をまた軌道に乗せ、足りなかった音読や暗唱などのメニューも盛り込んで、どんどん『グレート・ギャツビー』を実際読み進め、終わりまで頑張り抜きたい。あとは実行あるのみ。