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大昔、生物学者になりたかった40過ぎが、今また再チャレンジ

『グレート・ギャツビー』(村上春樹訳)読書感想文

今更だが、今一度『グレート・ギャツビー』の、中央公論新社村上春樹訳を読み直してみた。

この小説の英語の原文を暗記するという方法で英語の勉強を進めている最中で、一回でも暗記作業を済ませたことのある第3章まではもうさすがに読み直すまでもないと思い、第4章から読んで、今、最後まで読了。

緻密に練り上げられた小説だと思う。

つい最近、英文学の『デイヴィッド・コパフィールド』を読んだので、自然と『コパフィールド』と比較してしまう。

『ギャツビー』は、登場人物が作中でどんどん変化、成長していく様がよりはっきりと描かれているのが、『コパフィールド』との一番の違いかな。

扱っているテーマも重厚だ。最後の方で「これは西部の物語だ」という文章が出てくる。そのとおりなのだろう。俺がこの「西部の物語だ」という文章に対してさらに分析を進めることができないのは、歴史学をきちんと勉強してこなかったツケだな。アメリカという国の成り立ち、西部で何が起こってきたか、などなどを、ちゃんと人並みに知れば、もっと『ギャツビー』を理解することができるんじゃないだろうかと思った。

とりあえず歴史学的分析は今はできないから置いとくとして、この本のテーマに現時点で俺が言えることを探すと、うーん、そうだな。ただ単に読者を楽しませるだけの本じゃないよね、これ。読む前と読んだ後で、読者の精神が変わっていく。大人になっていく。そういう現象を起こすことをはっきりと狙い、そして成功している本だと思う。

デイジーに対して求めすぎてしまうギャツビー、ギャツビーを好きだけど当然現実世界にも生きているデイジー、金持ちの常識や金持ちのものの考え方をきちんと兼ね備えているトム。ニューヨークのホテル個室でのこの三人の言い争いは本当に真に迫るものがあり、何回目かの読書だが今回も俺はこれがフィクションであることを忘れた。ことの成り行き次第では十分勝算のあったギャツビーだが、トムの策略、デイジーの事情、そして何よりギャツビー自身の自爆により恋に破れ、そしてこの世からも去っていく。そのような激しい人生が、大半は普通の人で占められる社会の中で、光ってるよ。ジェームズ・ギャッツの作り出したウソは、ただのウソを超えて、実体を持った具体的存在として確かに生きた。

夢を追い続ける人に対する教育的効果ひとつ取ってみても、この本が果たしている社会貢献は計り知れない。夢を追い続けるというのは美しいことだが、追い続けるうちに、自分が変わり、社会が変わり、夢の対象が変わっていく。常に諸々補正、調整を重ねながらでないと、単に夢を追い続けるだけではトンチンカンなことになってしまう可能性が非常に高い。それをこの本は気づかせてくれる。そしてさらに、そういう事に気づかないまま行動していた頃の未熟な自分の無謀な挑戦と、この本との出会いが、不思議とリンクしてて、読者はギャツビーの悲劇に涙し、その後、再読するたびに青春時代全体を追体験するのだ。