カズオ・イシグロの『日の名残り』を、たった今、読み終わった。
読書直後のこのタイミングで感想を書きたく、今これを書いている。
今回読んだ版は「早川書房epi文庫」の割と古い翻訳。
非常に面白かった。
図書館で、カズオ・イシグロの本を一冊読みたくて、どれにしようか迷って別の本の序文とかも読んだときに書いてあったと記憶しているが、カズオ・イシグロは、テレビとかじゃない小説というメディアの可能性を模索してて、ドラマで同じことができるんだったら小説なんて書く意味ない、みたいな考えのようだった。で、今回『日の名残り』を読んでみて、その言葉に恥じないというか、まさにというか、小説という形式をフル活用した、工夫の行き届いた佳作だと思った。旅をしながら、思い出にもひたり、その思い出の叙述が非常に自然に小説の中に配置されており、小説の進行が人間の頭の働きを熟知しててピッタリ寄り添いつつ進んでいくように感じた。読んでて心地よかった。
たまたま最近、アメリカ文学の『グレート・ギャツビー』と英文学の『デイヴィッド・コパフィールド』を読んだんで、もちろん全体的な視野を持ってというのは言い過ぎだけど、これらの過去の古典2作品を踏まえた上で『日の名残り』を読めたのは良かった。かゆいところに手のとどくというか、そう、そこらへんが知りたかったんだ、と、思った。執事というキャラが古典2冊でも共通に重要な役どころを担うのだが、じゃあ執事本人はどんな考えを持ちどんな人生を歩んでいるのかが、いまいち腑に落ちない点があった。そして、『日の名残り』は、ずばり執事が主人公であり、執事の心の内面が文章いっぱいに溢れてる。
この主人公のミスター・スティーブンスが追求し続ける「品格」についてだが、思考と行動の2つの面からアプローチする際、ちょっと別物のように見え、なんというか、俺もよくわかってないんだけど、物理で、光っていうのは波のようでもあり粒子のようでもあるらしいじゃないですか。品格も、思考に品格があるというのと行動に品格があるというのとが、パッと見、直接関係してないように感じちゃう。
品格のある思考というのは、理性の行き届いた丁寧な、という意味だと、安直に考えるとそんな言葉が思い浮かぶが、事はそう単純ではない。意識的な思考というのは心の全体のほんの一部であり、無礼なことをしてしまうのは無意識的な思考からしでかしてしまうことも往々にしてあるので、品格のある思考イコール理性の行き届いたということではない。無意識の範囲にもベストを尽くしてアンテナを張り巡らせ、普段から勉強して自己理解に努め、バランスの取れた精神を自らのうちに涵養していく姿勢が、品格のある思考ということなのだと思う。
それに対して、品格のある行動とはなにか。ちょっと話は飛ぶんだけど、この『日の名残り』のラストの終わり方が、品格あるなあ、と思ったんだけど。イギリス的な、抑制の効いたジェントルな感じ。アウトプットである行動の裏を類推して、品格ある思考をしてるなあと人を尊敬するのもよくあることで、裁判での法律の適用とかも、そういう発想ってよくあるけど、アウトプットである行動そのものが品格があるかどうかっていうのは、また別物なような気がする。
思考が行動を生むし、行動した結果によって考え直し、思想・哲学というものが修正・発展されていく。そしてまた、時の流れとともに人は絶えず次へ、次へと思考し、行動していかねばならない。ところが、思想・哲学というものは、意識してる範囲内のものであって、無意識エリアだけどあと一歩のところに、実はいちばん重要な要素が来てる、ということが、本当に、人生、がんばればがんばるほど、不思議なことに、そんなことばっかりだ。それどころか、自分の哲学でがんばって考え抜き行動していったまさにその結果として、自分の哲学がカバーしきれてない弱点により、事態をさらに悪化させてしまう。苦しい。そういう苦しみを、これ以上ないほど鮮やかに小説という手段で描ききった『日の名残り』はすげー。
じゃあ『日の名残り』以後の我々現代人としては、どのように生きていくべきだろうか。品格のある思考と品格のある行動を両立させていくには。品格のある行動を取り続けていくにはどうすればいいのだろうか。また、品格のある行動を取るために品格のある思考を犠牲にしてもいいのか。これは『日の名残り』に出てきたイギリスとアメリカの摩擦にも通じる問題かと思う。まあ国際問題を持ち出すよりかは、ここでは個人レベルの話をしたいのだが、だから恋愛とかって、真面目すぎると困難だよね。
ちょっと、もう、今日はこれ以上はまとまんないかな。何しろ、非常に面白かったです。