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大昔、生物学者になりたかった40過ぎが、今また再チャレンジ

聖書全体の通読をした感想と、並行して読んだ『ちいろば牧師の一日一章』感想

聖書を通読した。その感想を書く。

まず、聖書を聖書だけでゴリゴリ読み通すのは、俺は不可能でした。

巷には、副読本みたいなのがたくさんあって。つっても、本屋にドカドカ置いてあったりもしなくて、でっかい本屋に行ったり、キリスト教関連書籍の専門店に行かないと入手できなかったりするんじゃないか。

で、俺は、まだ実家に住んでいた頃、家の近くのキリスト教教会に短期間通ったことがあって。で、その教会では、教会全体を挙げて、聖書を一日一章読むというのを推奨してて。それで、俺も読み始めた。

と書いたが、キリスト教との出会いはもっともっと大昔にさかのぼる。大学と大喧嘩の末、日本に見切りをつけて渡英した際に携えていた小さな聖書は、元いた大学でお世話になった恩師に影響されて買ったものだったんじゃないかな。その後、イギリスにて大病、帰国…。そんなイギリス帰りの聖書は、俺の持っている宝の1つだ。

昔話から戻り、現在の話をすると、だから、4年ほど前からかな、実家からちょい東京寄りに引っ越して再び一人暮らしを始めた俺。で、それと前後して、あれ、もしかしたら実家時代かもしれないけど、聖書を読み進める強力なツールを入手した。それが、『ちいろば牧師の一日一章』という本。これは、聖書の一章一章全部に対して、ちょっとした解説、お説教を1ページ分が書いてある。聖書は全部で1300章くらいあるのかな、だから、この本も分厚い。旧約聖書版、新約聖書版に分かれている。

一人暮らしを始めて、忙しさにかまけて聖書を読めなくなった時期もあったが、一人で落ち着いた時間を過ごすうち、いつしかまたコツコツ聖書を読むのが習慣になった。毎晩、聖書を一章読んで、対応の「ちいろば」を読み、そしてご褒美に甘いものを食べ、寝る。そんな生活を3年ほど続けたところ、ついに昨日、聖書全体を読み終わった。

長い!それがまず感想の第一かな。延々と系図が続いてるところとか、詩篇?歌の歌詞になってるようなのを、日本語の翻訳でゴリゴリ読んでも、メロディがわかんないから正直キツい。

でも、ところどころで、マジで面白かった。究極の古典の1つなんでね、大昔に書かれた文章を読んで楽しいというのは人類の一人として充実感はある。例えばエステル記。俺、エステル記大好きなんだけど。なんか、別の民族にユダヤ人たちが支配されていた時代に、ユダヤ人のある女の子が王様のお妃になって、そして、この子がユダヤ人全体を救う、みたいな話。文章も流れるようで無駄がなく、実に読ませる文章だったと記憶している。ストーリー展開もパッパッと切り替わり飽きない、エンターテイメント。ただこれ、「ちいろば」の榎本先生曰く、このエステル記には「神」という単語が一切出てこず、文章の内容もあんまし宗教と関係ないじゃん、みたいなことで、聖書がそもそも編纂された当時においても、このエステル記を聖書に含めるか否かが問題になったらしいんだよね。すったもんだの末、エステル記は残ったというわけ。

あと、ちいろば牧師、すなわち榎本保郎先生は、牧師さんである。俺ん家はキリスト教一家ではまったくないが、昔横浜に住んでた時、そういやトイレの前のラックに『ちいろば先生物語』の文庫版が転がってた。子供の頃は読まなかったが。それを思い出し、『ちいろば牧師の一日一章』のお説教が素晴らしいんで、一年くらい前かな、図書館で『ちいろば先生物語』を借りて、読んだ。この『物語』の方は、三浦綾子っていう作家が榎本先生を取材して書いた、伝記である。太平洋戦争に兵士として従軍し、大変な思いをしてこられたことなどが書いてあった。

聖書の内容に戻る。そうだな、他、聖書を直接読んだ感想は、と。旧約と新約がかなりカラーが変わるんで、旧約から読み始めて挫折してそのままになっちゃうってのは非常にもったいないんで。旧約と並行して新約も一日一章読む、という読み方を俺は友だちに教えてもらって、実践してみてとても快適だった。新約は、まずイエス・キリストを直接知る人の筆になる文章がドカドカ続くんで、分かりやすく、面白い。

やっぱりさ、欧米ってのが、キリスト教文化圏なんで、ある程度以上理解しようとすると、聖書を理解しないとキツくなってくる。壁だよね。だから、可能なら、聖書を通読したいと思ってる日本人は多いと思う。けど、かなり大変なことではあるんで。やっぱり、宗教に対するまっとうな興味というのがないと、読み通すことは出来ないと思う。

最近このブログでは、高校入試関連のブログ記事もどんどんアップしてるんで、もしかしたらここらへんに中高生とかの若い読者が迷い込んでるかもしれないし、いや若くなくてもいいんだけど、ちょっと宗教のことについて語っておく。人生って、楽しい事ばっかりじゃないじゃないですか。ムカつくこともあるよね。ムカつくで済めばまだいいけど、絶対許せない、とか、はたまた、絶対に許されないようなひどいことをしてしまった、とか、そういうのがしがらみになって、身動きが取れなくなっていくものだと思うんです、俺は。このようなしがらみから自らを解放するというのは、人間一人一人の力では無理、少なくとも俺は無理だという判断に至りました。すがるしか、ねえ。で、今までにも、やれ、鎌倉行って泊りがけの坐禅会に参加したりだの、色々やったんですが、どうも、仏教というのは、いや、俺が関わろうとした関わり方で出会った仏教は、人間関係の中で人を癒やしていくという、俺が渇望していたファクターを欠いていたように思います。最近の「マインドフルネス」とかってのは、この前実はちょっち体験する機会があったんだけど、あれは、良いと思う。禅とかヨガが、欧米を経由して、最近日本に逆輸入されてる、というふうによく紹介されるけど、アメリカとかで、禅に足りなかったそういう人間関係の癒やしみたいんが、付け加わって、それでますます最強になってるから、流行り始めてるんじゃないかなと思う。ただ、俺が体験した禅は、ただ座禅を組めば問題は解決する、みたいに、まあ俺が曲解しただけだろうけどさ、そういうものだと思って、結局これで俺は自分を守ることは出来なかった。で、キリスト教というのは、俺が思うに、人間関係を非常に重視してくれて。孤独な人のその孤独を解消しましょう、みたいなの、ホント、俺が求めてるものだった。年齢的に人生の折り返し地点に達してる今、正直、俺、また近場のキリスト教教会に通い始めてて。過去に犯した罪のせいで、人や自分を許せなくなると、なぜか人は孤独状態に落ち込んでいくものだと思うんですよ。そういうのを、自分や家族以外の場で、癒やしていくことは、充実した人生を歩むために、必要だと思うなあ。

ちょっともうまとまらないんで、このへんで。