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『小説読本』(三島由紀夫著)読書感想

中央公論新社から出ている、三島由紀夫著の『小説読本』という本を、読み終わった。その感想を書く。

これを読もうと思ったきっかけは、この一年くらい参加してた、さる読書会があって。次回の読書会の運営を半ば任されたような形になったんで、より良い読書会に向かって、自分をアップグレードさせてくれる本はないかと図書館で書棚を巡ってたら、この本に目が行った。

読みかけて、でも一旦読み通すのを諦めた。ちょっと関心領域からの距離を感じたんで。でも、やっぱり気になって、また借りて、で、今さっき、読み終わったところである。

小説とはなんぞや、みたいな話が主で、で、小説家になるためには何をどうすればいいかみたいな話もちょこっと冒頭とかにあったり。でも、メインは、小説そのものの分析。

三島由紀夫の小説を読んだことがある人じゃないと、充分に楽しめない本だと思う。三島作品の魅力を自分なりにイメージできてないと、その制作裏話だけ聞いても大して面白くもないだろう。

分量的には半分以上を占める、その名も「小説とは何か」っていうのが、これ、三島由紀夫自衛隊を乗っ取った末に死んでしまう、その直前の時期の雑誌連載だったようだ。三島最後の小説、『豊饒の海』を、俺は読んだことがあって、好きなので、豊饒の海を執筆途中の三島の雑誌連載の文章だあ、と思って、俺は面白く読んだ。

で、と。具体的な内容としては、そうだな。なんか、小説ってのが、スタイルは自由なんだけど、自由であるがゆえに、作家は自己責任で自分のスタイルすなわち文体を生み出さなければ、つじつまの合ったちゃんとした小説を書くことは不可能なのである、と。それが、なんていうか、小説のワナだよね、みたいな話が繰り返し語られていた。自由だからこその苦しみを、作家というものは甘んじて受けなければならない運命だ、みたいな。

ひと言で言えば以上なんだけど、そこはそれ、現代日本に至るまでの歴史的経緯とか、ヨーロッパで発達した文学の考え方そのものについての考察、それがどういう経緯で日本に取り入れられてきたか、などなどが、全方位バランス良く記述されている。ここらへんを、ひと言で要約することは出来ない。ああ、そういえば、この本の最後の方に、文学というのは要約出来ない、みたいな話が出てきて、それ、深く納得した。本来要約できないのが文学なのにも関わらず、忙しい世の中、作家、文学者というのはレッテルを貼られて理解される、つまり要約された形で世間に認知されることになってしまう、それがツラい、って三島由紀夫が書いてるが、ここらへんも、それはそうなんだろうなあと納得した。

そんなところかな。三島由紀夫の文章、難しすぎて時々わかんないんだけどね。本能的に、大事なこと書いてんなってのは感じるから、読み進めちゃうんだけど。俺は、基本、ちょっと背伸びしないと読めない、三島由紀夫の文章は。

肝心の、読書会に向けて何がどう勉強になったかだけど、そうだな、作家側の裏事情がぼんやりとでも想像できるようになった。文章とはなにか、みたいな、かなり基礎の基礎みたいなものは、心に栄養となって入ってったと思うんだけど。あんまし、直接なにか役に立ちましたみたいなトピックは一つも今んとこ思い浮かばない。読書会に向け、粛々と実際的な準備の方をするべきだろう、俺は。