説明責任の行き届いた社会を目指して

大昔、生物学者になりたかった40過ぎが、今また再チャレンジ

(注)ネタバレなのでまだ観てない人は注意を!すずめの戸締まりを、今更ですが観てきました。その感想

映画『すずめの戸締まり』を、のこのこ一人で観てきました。今更…。
 
あ、いきなりネタバレになっちゃうんで、まだ観てない人はご注意ください。
 
で、いやあ、納得行かないっすね。ソウタみたいなケースは、この世の中、要石になるのが99.999999%でしょう。
 
だって、ダイジンは長いこと要石だったんでしょ?じゃあ誰かが交代するのが筋じゃん。当たり前じゃないですかね。それで、その順番が自分に回ってきそうだったら、俺なら進んで引き受けるかも。
 
いや、でも、これは、俺が大病を経験してきたサバイバーで、病気のために結婚もしてないし子供もいないから、そんなことが言えるのかもな。守るべきものが確固としてある人は、要石になれなんて言われても絶対拒否かも。
 
あんまり宗教とか国体の話とかと結びつけたくないんだけどね。新鮮な気持ちでまずこのブログに感想文を書きたいから、まだ他の人のレビューをあえて読んでないんだけど、予想するに、多分たくさんの人が、そういうこと書いてるっしょ。だから俺は、可能な限り日本語の基本単語だけを駆使して、俺なりに話の根本に迫っていきたい。
 
うむ…やっぱり、俺の最初の感想、納得できない、ってのは、一面的に過ぎたかもな。だってさ、俺だったら喜んで要石になるよ、なんて吹聴するのはさ、俺なんか誰からも愛されてないよって言ってるようなもんなんじゃない?この人間社会、誰もが誰かから愛されていて、そのかけがえのない一人が要石になる、っつったら、その人を愛している人が、それこそすずめのように悲しむ。人間たるもの、自分を愛する人のことまでをちゃんと考えられるようになっていくってのが、大人としてのいちばん大事な心構えの一つだろう。
 
でもねえ、いや、現代が昔より世知辛い世の中になってる、とか、そういう事を言うつもりもなく、いや、昔も今も、ずっとずーっと、世の中って、そんな愛であふれた場所でも、ないじゃん?たとえ夫婦や親子であっても、一方がもう一方を食い物にする関係になっちゃってることって、ままあるじゃないですか。
 
だから、このすずめの戸締まりは、ある意味、愛に関する教育的指導を含む。そういう監督の方針なんじゃないか。力いっぱい愛し合いなさい、って。愛の無気力におちいるな、愛を追求しなさい、と。そういう世の中でこそ、要石にまたなってくれたダイジンも、納得してくれるよ…と。あーやっぱり、俺、やっぱ納得できないわ。ダイジンは誰かと交代してもらうべき。もしくはさ、誰かが要石になるっていうシステムそのものを、壊して、新しい体制をともに構築していこうよ、っていうビジョンを打ち出してほしかった。
 
ああ、あと、俺、子供はいないけど、甥姪は3人いて、結構遊んでもらってる。そんな俺として、たまきさんとすずめの口喧嘩にはハッとさせられた。俺は俺の甥姪をあんなつらい気持ちにさせたくないな。あのシーンは結構きつかった。
 
そんなところでした。ひと晩寝て、明日以降、観た人のレビューとかもちょいちょい読んで、色んな意見に触れていきたい。