万引きのシーンや風呂場のシーンがただ衝撃的なだけの作品ではない。一つ一つのシーンが、書いた当時の著者本人にすらわからない全体像の中で必然的に存在している。
がらんどうだった新居に突如入り込んだホームレス家族は、この家に内容を与えてくれた。
俺も横浜出身なのでわかるが、そもそも横浜という町が、そっくりそのままがらんどうだった。裸一貫で、戦後日本の成長の波に乗っかってきただけの新参者のすみかなんだよ。だから誰もこのホームレス家族をむげにはできない。根本的に同じ仲間だから。
小説前半の、万引きの思い出などが延々と続くパートは、後半に比べ、なんて重苦しいんだろう。人は思い出だけで生きていけるという人もいるが、今、誰と、何に向かって生きていくのかということこそが常に大事である。今が苦しいから、苦しかった時の思い出を思い出してますます苦しむ。ところが、その状態のゲームチェンジャーがいる。子供だ。新しい命は、周りに存在意味を与えてくれる。はっきり言おう。存在意味を得るために子供を生産するのは罪だ。
言語の発達により、思考を交換可能になった人間たちは、人生哲学をもはや自前で作り出す緊急的必要はない。誰かからもらっちゃえばいい、当座は。しかし、死に向かって誰しもが、その状態ではいられない。自分の人生の存在意義を、結局は常に、常に確認せずにはいられない。そのために子供を作る。その子供がグレる。当たり前だ。
柳美里は、しかし、そのようなドロドロのさらに先へと進んでいるから、だから、この物語を書けたのだろう。同じ罪を繰り返しながら命をつないできた人類は、今後も同様の過ちを続けていくだろうということを了解の上で、この不安定な世界に立脚して、文化を生み出していこうという意識を感じる。その状態で初めて、新しい気持ちで他者と出会うことができ、感動した。その感動が一つにまとまったのが、この「フルハウス」である。