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大昔、生物学者になりたかった40過ぎが、今また再チャレンジ

柳美里『声』読書感想

柳美里の『声』を、今、読み終わった。その感想を書く。

2022年末の12月29日に『命』四部作を読み始め、日程はタイトだったが年内に全部読み切りたいと意気込んだが、大晦日のお昼までで一旦切って、実家にて両親との時間を過ごす間は読書の続きはできなかった。

晦日の朝から第四部『声』を読み始めてた。で、2023年元旦の今日、両親と墓参り、最後のお茶。それが終わって両親と別れ、自宅に戻って、もらった手作りの伊達巻の二分の一本などを冷蔵庫にしまい、それから『声』の続きを読み、今さっき読み終わった。

30日にアップした第三部『生』の感想文(後注 『魂』感想文の間違い)にて、俺は、柳美里も(お母さんに)愛されてるじゃないか、などと書いた。ちょっと不用意だったと、『声』を読んだり両親と接したりしながら反省した。柳美里とお母さんとの関係は、特に思春期までの関係は、多分最悪だっただろうと想像する。『生』中に、あなたは感情の揺れが大きすぎますとお母さんから柳美里にFAXが届くシーンにも俺は感想文中で触れたが、あれなんか、そっくりそのままそれはお母さんに対しての柳美里からの非難としてこそ通用するものだったんじゃないかな。つまり、もらった柳美里側の心理としては、どの口が言う、という気持ちだったんじゃないか。

俺も、柳美里ほどではないが、両親との関係には苦労している。この年末年始の帰省は、まあなんとか表面的にはうまくやれたと思うが、過去には、本当にストレスでストレスで、両親との関係が直接的間接的な原因となって、いろんなひどいことを体験してきた。そして、今後もそのような両親の根本姿勢は変わることはなく、よって今後も両親との関係がきっかけになって俺の人生は台無しになる可能性が十分ある。それを承知の上で、今後も関係を継続するのだ、そのために、両親含め俺に今までひどいことをしてきた人を許す、また、自分が犯してしまった罪ももしかしたら許してもらえるかもしれないという希望を持つ、そのために、俺は今、キリスト教に接近している。家族がその家族だけで社会から孤立していては、崩壊していくのは実は当たり前であり、積極的に外部と関係し合っていくことは、家族そのものの維持・発展に欠かせないことだ。そういうことを、戦後の典型的な無宗教核家族の多くが、完全無視してきた。ウチもその一員だった。そう思ってる。

えーと、『声』の感想に早く入りたいのだが、なにせ『命』四部作を最終巻まで読み終えたんで、総括的な話がどんどん浮かんできちゃって、筆が滑る。

東由多加との思い出を綴った本が、四冊も続いた。その最終巻が、この『声』である。ちょっと前に俺、同じ柳美里の『8月の果て』っていう小説も読んだんだけど、こっちの方は、内容が激しすぎるせいか、それとも内容に沿って柳美里があまりにも版元側に予定変更を強い過ぎたせいか、終わり方がちょっと不自然で。なんか、違ったかな、連載が途中打ち切りになったんじゃなかったかな。で、そういうのと比べて、この『命』四部作は、この『声』を持ってして、柳美里もMAXの力で終わった。それは、良かったなあと思うのである。あとがきに、柳美里自身が、この『声』は、先の三冊とは異なる、と書いてる。それは、このシリーズを終えるということは、東由多加との思い出を書いた本が出来上がり、自分の手を離れ、日本文学の中の一冊として客観的な世界に送り出されるということであり、柳美里東由多加との本当の別れを意味するからだと俺は思う。そのような重要な瞬間が言葉となって書かれたこの本が、出版社とのケンカとかそういう事情に邪魔されず、柳美里のフルパワーの芸術的センスで精錬されて完成したというのが、それ自体素晴らしいことだ。

『声』の中で、峯のぼるさんが柳美里に、東由多加はあなたをプロデュースしたんだよ、と言うシーンがあり、ひと言で言うならそうなのだろうが、この四冊を通読して、とても「ひと言で表す」ことなどできない、というのが俺の考えだ。

例えば俺は塾講師をしている。大病からだいたい回復して初の講師職であり、俺は気合が入っている。準備は、結構マジで頑張ってる。給料を遥かに超える費用と莫大な時間をかけている。授業は、毎回、楽しい。生徒もついてきてくれる。と思ったら、欠席する。本当に馬鹿だと思う。でも、俺自身も、中高生の頃、よく塾を辞めた。馬鹿だった。だから、本気で怒れない。ただただ、それでも準備を欠かさず、ますます頑張る。

「若い」とは「バカい」に通じ、人の愛情を無下にすることでしか成長していくことのできない最悪な状態なのだ。そのような、若いつまりバカい人間に、真言宗のお坊さんが火に御札を投げ込むように惜しみなく愛情を注いでいく。それが、俺の理解しているところの「プロデュース」という言葉の意味だ。男女関係も絡み、ちょっと意味に若干違ってくるところもあろうが、「東由多加柳美里をプロデュースした」と言えるとしたら、まあそんな感じだと思う。

遺伝子は両親から受け継ぐものだが、言葉により人間は相互に交流し、俺、思うんだけど、実際遺伝子レベルでも変わっていく存在なんじゃないかと本気で考えてる。言語活動は遺伝子組み換えじゃないかって。だから、科学的にも、柳美里東由多加の関係は、血縁関係よりも深かったっていつか明らかになるよ、多分。ここまで人と人が愛し合うんだっていうことを、俺は今読書で学んだけど、本当は、自分自身の体験として、そういう本物の愛を求めていくというのが、この本の本当の意味での読者なんだろう。