説明責任の行き届いた社会を目指して

大昔、生物学者になりたかった40過ぎが、今また再チャレンジ

柳美里『魂』読書感想

柳美里の『魂』を、今、読み終わった。感想を、ここに書く。

このブログを書いてるのは2022年末の12月30日。彼女の前著『命』の内容があまりにもすごかったので、びっくりして、絶版になってる、『命』の続きの文庫本をアマゾンで注文し、新年2日までには届く手はずを整えたものの、いや、年が明けるまでの、今、読みたいんだ!と、昨晩さらに色々ググっていろいろ調べてた。すると、KKベストセラーズってところからこれらの本が一冊にまとめられて再版されてることを知った。大手書店の在庫確認をグルグルしたとこ、丸の内のオアゾ、池袋のジュンク堂、新宿の紀伊國屋書店に在庫があることを確認。で、新宿を選び、10:30開店直後に紀伊國屋書店行って、無事に、このKKベストセラーズの分厚い本を入手したのだった。

柳美里が出産した時期から始まる疾風怒濤の期間の記録が、いわゆる『命』四部作、すなわち『命』、『魂』、『生』、『声』である。ブックオフで29日に『命』と『声』は入手でき、『命』を読了したのだが、順序から行って第四部の『声』を先に読むわけにも行かず、『魂』と『生』が届くのは1月2日。というのを、今日の新宿行きで、時計を3日間巻き戻し、このKKベストセラーズから出てる、『命』四部作が全部入った、『永在する死と生』という作品集を買ったというわけ。で、『魂』を読み終わったのは地元に帰ってきて午後4時頃だった。

 

具体的な感想だが、まず書きたいのは東由多加が丈陽を最後にお風呂に入れたシーンについてである。非常に感動した。末期癌の男が、元恋人が別の男との間に生んだ赤ちゃんを、何度も何度もお風呂に入れる。その最後に入れたシーンが、頭から離れない。競泳のテレビ実況を真似た楽しいおしゃべりで、赤ちゃんをあやしつつ、痛む身体で、赤ちゃんを洗っていく。あまりの優しさに心が震えた。落ち着いて読んでいられる限界を超えている。ここを読んで俺は、今後の生き方に影響が出てくるだろう。

このように、激しく物語が進行していく『魂』だが、この『魂』に限らず『命』、また他のいろんな小説とかでもそうなんだけど、やっぱり指摘しなきゃいけない、ちょいマイナスっぽいこともある。マジで、実名で色んな人を糾弾しちゃったりするような内容を、かなりバンバン書く人なんだよね、柳美里という作家は。でもこれは、時代が巡れば、貴重な、その時代の記録となってもいくのかもしれないけど。いやそれ以前に、やっぱし、もろにこの現代、今この瞬間に、今この時についての生の声を発するということこそが重要なのかな。しかもさ、落ち着いてどっしり、円熟した技術として、そういう時代の切り口の生の姿もあえて包み隠さず表現する、っていうのからは程遠いんよ。カリカリして、時間もなく、お金にも苦しんで、愛憎の渦の中、ケンカばっかり繰り返し、そんな中、絞り出すように文章が紡ぎ出され、その中に、避けがたく、もろに人の悪口が、混じり込んできちゃってる。でも、でも。そういう人生の苦労と真剣に向き合い、対峙して、そういう苦労を文章にして世に送り出し、その稼ぎで生活してる、この作家には、本当に、こうするしかないのであり、必然性を俺は感じるんだよね。しかし、悪口を言われる当事者の立場にもし俺がなっちゃったら、場合によってはこの人と喧嘩するしかないこともあるだろう。柳美里は、そのように良くも悪くも非常に存在感のある作家だと思う。

ここまで追い詰められた状況で、それでも、つじつまのあった、物語として成立しているまとまった文章になってるのは、編集者も相当頑張ってるよ、これ、多分。『魂』の内容からも明らかだけど、編集者の公私ともに渡るサポートは本当に頭が下がる。

お母さんのFAX、ってのが、『命』でも『魂』でも時々出てくるが、『魂』の中のそのようなFAXの一節に、「あなたの感情の激しさに誰もついてこれない、困る」みたいなことが書いてあったが、本当、正論でそのとおりだと思った。結局見捨てずについててくれて、わかめスープと牛テールスープを作ってくれる。柳美里東由多加が色んな人から愛されてることを繰り返し書くが、俺から見れば柳美里本人だって色んな人から愛されている。俺も、チャンスがあったらそのミヨックとコムタンスープっていうの、飲んでみたい。

柳美里『命』読書感想

柳美里という作家の『命』という本を、今読み終わった。感想文を以下に書く。

柳美里を嫌悪する人も中にはいるだろうけど、その嫌悪感の理由みたいなものがあるとしたら、その塊みたいな内容だった。強い情念を生のまま壁に投げつけてできた絵のような文章だ。ただ、俺は柳美里を敬愛してるんで、かばうようだけど、柳美里の本によく表現される強い感情って、誰もが持っているものであって、ただ柳美里はその感情をもろに活字の形で世の中に発表できちゃう能力と運命を併せ持っていた、ということなんじゃないかな。

ただセンセーショナルなだけの内容ではない。難しい人間関係の間を縫うように、初めての子供を産む彼女を、俺は尊敬して止まない。

かと言って、根拠も何もなくただ柳美里を礼賛するだけってのも、全く意味ないと思う。もうちょい、俺自身の言葉で、この『命』を俺はどう読んだかを語りたい。

てか、生活圏が近いんだよ。この『命』の中で、柳美里が汗かいて歩き回った渋谷とか、全く同時期に俺もそこらへんいたからね。あと、同じ横浜出身で、柳美里のお父さんは黄金町勤め、俺はその二駅先の井土ヶ谷に住んでた。

自分の感情に振り回され、人も振り回し、激しく影響を与え合いながら、人生を生きている。文章からはっきり、柳美里のそういう生き方、呼吸のようなものを感じる。叫ぶように書く、そんなふうに書くことで、生計を立てている。そのようにして生み出される文章は、時に生々しすぎて、茶の間の団らんにはそぐわない。だから、長期的に安心できる小説とはならず、その文学的価値とは裏腹に、このままだと埋もれていってしまうだろう。現に、新潮文庫版は、絶版になってんじゃないかな。出た当初はベストセラーになったんじゃなかったかな、でも、文庫版は売れなかったのかな。

音楽とかうまいレストランとかでも同様の現象があるけど、本当に良いもの、個人的に本当に良いと思えるものって、結構しばしば、あんまり売れてるものじゃなかったりするんだよね。食べログとかオリコンチャートとか、参考にはなるし重要だと思うけど、自分で感じて求めていくことって、それ以上に大事なことだと思う。『命』は、そういう俺の個人的なアンテナに引っかかって、読んでみて、これは素晴らしいということになった。

柳美里は、生まれてくる息子の父親と決裂したりと、色々厳しい状況に立たされる。けど、この物語が俺の心を打つのはなぜかというとさ、人間がひとり生まれるっていう時って、本当に人それぞれ色んな事情があって、どの子をとってみても、その子の誕生を取り巻く事情の複雑さってのは、結局んとこ同じだけ深刻だからなんじゃないかな。柳美里は確かにシングルマザーでなおかつ在日韓国人であり、本当に大変だろうと思うんだけど、読みながら思ったのは、あ、俺が生まれるときってのも、両親をはじめ色んな人を巻き込んで、色んな情念の渦の中、俺は生まれたんだろうなあ、と。そして、人間ってのが、全員が全員例外なく、そのような情念の塊の中から世の中に向かって飛び出してきた稀有の存在なのであり、マジ、大切でない人なんて世の中一人もいないんだ、と、心から思ったよ。

ちょっと今はこれくらいしか言葉が出てこない。一晩寝たら、また更にまとまった感想が持てるかもだけど、とりあえず今回の感想文は、こんな感じで。

今年も、横浜の奥地を一人でほっつき歩いてきました

今、武蔵野市に一人暮らししてるけど、子供の頃は家は横浜にありました。東京の中高一貫校に通って、卓球部を幽霊部員になったあたりから、横浜駅から自宅に、電車を使わず歩くというのを始めました。で、一浪して大学行ったはいいけど、またまた部活でうまく行かなくなって、辞めた。で、また俺は一人で歩いてばっかりいました。
 
そんな、ボッチの思い出が詰まった、横浜の奥地を、昔の記憶を訪ねて、一年前の年末年始も、一回歩いた。確か、その時もブログ記事をアップしたと思います。で、今回の年末年始も、またまた来てしまいました。
 
東横線で横浜入り。で、地上に上がってきて、西口の相鉄改札前辺りの、交番前の立ち食いそば屋へ。天ぷらそば食べた。おいしかったです。そうそう、その前に、移動の中継駅のブックオフで、柳美里の『命』っていう小説を、入手して、電車移動中に読み始めた。これも、計画してたことで。てか、図書館が閉まっちゃう前に本を借りときゃ何の問題もなかったんですが。借りるのをうっかり忘れちゃってて。
 
で、『命』も結構読み進んで、で、子供の頃もよく行った立ち食いそば屋でお腹も満たしたんで、ゆっくり歩き始めました。コースは複数選ぶことができ、去年は、本物の旧東海道、江戸時代からあった道の跡をたどったのですが、今年は帷子川沿いをチョイスしました。静かで、とっても落ち着きました。うん十年前も確実に何回も通った道なんで。で、西横浜エリア、天王町エリアを、川沿いからはっきりは分からなかったけど、多分通り過ぎ、で、保土ヶ谷に着いた。日差しが眩しくて、ちょっとマスク焼けしちゃったかもしれない。でも、冬の寒い時期なんで、たくさん日光を浴びれたのは良かったです。
 
保土ヶ谷で、このプチ旅は、徒歩パートはおしまい。今、保土ヶ谷で、旅先で記録をつけたいなあと、カフェ・ド・クリエに入って、これを書いてるところです。
 
3,4日前に、詳細につけてる日記の、3年分の振り返り作業を終えてて、心も片付いてて悪くない気分。新年にはお友達と初詣に行く予定もちゃんとあり、ボッチではありません。その上で、今日みたいなボッチ旅も、悪くないなと思いました。
 
結構読み進めたので、近日中に柳美里の『命』の読書感想文ブログもアップしたい。
 
今、塾講師をしてる仕事柄、取り組んでる、高校英語検定教科書がまだ半分弱しか終わってないっていう局面で、年末年始に突入してしまい、電車移動中の読書に『命』を選んじゃったもんだから、この教科書の方が完全ストップしちゃった。参ったな。こっちもこっちで非常に面白いんですが。
 
実はこのカフェ・ド・クリエMacを広げた瞬間、今日やってしまうはずだった事務作業を完全に忘れてたことに気がついて。それで気が気じゃない中、この旅行記を書いてます。この3ヶ月の塾講師の仕事の総括と今後の目標設定、っていうのがその仕事なのですが。ちょい、引き続き、この保土ヶ谷のカフェで、ちょっくら仕事します。で、終わったら、もしくはMacのバッテリーが上がっちゃったら、横須賀線で横浜に戻って、サウナでも行こうかなと思ってます。スカイスパっていうとこ。だから、よっぽど俺、横浜をさまよいたかったんだな…。交番前の天ぷらそばも食えたし、心はもうかなり満たされてます、既に。来年また来よう。

『CROWN English Communication II New Edition』(三省堂の高校英語の検定教科書)読書感想

三省堂の高校英語の検定教科書、『CROWN English Communication II New Edition』を、読み終わった。その読書感想文を、ここに書く。

最近、中学校の検定教科書を各科目バーッと読んだ経験から、この今回の教科書に対しても、俺、ぴーんと来た。3年間のカリキュラムの中で、いちばん大事なのはこの2年目だな、と。いやね、このCROWNだけど、English CommunicationはIからIIIまであるんですよ。で、多分、高1,高2,高3と対応してるんだと思う。で、今回俺が読んだIIは、だから、高2生が読む本なんじゃないか。で、1年目は導入、3年目は次のステップへの準備。で、この2年目ってのが、一番本気でがんばってもらいたい、能力を実際伸ばす期間と位置づけられてるんじゃないかなって、思うんだよね。

Iに引き続き、IIも、良質な内容の英文がポンポンと並んでて、読者に将来の夢を描かせるように仕組まれてる。その点、素晴らしいと思った。特に良かったのは最初のLesson1と最後のLesson10かな。劇作家の平田オリザさんの、10代の頃の自転車世界一周の話と、イギリスのおじいちゃんが孫に絵手紙を送り続けた話。走れメロスが中2の国語の教科書のラストに配置されてるように、平田オリザさんの話も意識して高2教科書の初っ端に配置されてるんだろうな。充実した高校生活を促す、にくい演出だ。

で、英語の教科書としての俺の感じ方だが、そうだな。結構分量が多くて、やりごたえがある。で、上でも言ったけど、実際ここで読者の英語力の向上を狙って、微妙に微妙に、Lessonを先に進むごとに、英文のレベルが、じわじわ上がっていってる気がする。だんだん、英語の英語らしい言い回し、日本語とは違う発想法がもろに出た英文が、小出しながらも徐々に増えてって。で、最後の「Optional Lesson」で、アメリカの作家がしゃべったある大学の卒業式でのスピーチへと進む。このスピーチ原稿は、あえて、それまで小出しにしてた、英語らしい、日本語とは違う思考回路による言い回しをドカーッと出してきてる。このOptional Lessonを読んで、ああ、今まで読んできた教科書の英文は、まだまだ甘かったんだな、と、ここで生徒は気づく。そういう構成になってる。で、でも、今後ホップ、ステップで、こういう本物の英語へも食らいついていけるだけの、基礎学力は、Lesson10まででまあ出尽くしてるわけで、ちゃんと復習しながら、慎重に何回も繰り返し取り組めば、このスピーチ原稿、理解できる。そのように調整されたレベルの英文になってる。そこらへん、本当に、教科書執筆者は編集が上手だなあと感心しちゃう。

ああ、あと、このIIの真ん中あたりから、三省堂が別で出してる、この教科書完全準拠の単語帳を並行して読み始めた。これ、便利だったんで、おすすめします。今の俺の実力では、慎重にまず単語帳に目を通しておけば、最初に朗読CDを聞きながら本文を読んだ時に、80%くらい意味がわかっちゃう。でも、難点なのは、単語帳に目を通すのに、かなり時間がかかること。まあ俺がこれを読む目的は、ゆくゆくこれを使っての中高生指導だから、単語帳がいかに学習指導に有効かどうかこそが問題になってくるんだけどね。うん、悪くないと思います。その点でも。だから、三点セット:教科書本体、朗読CD、単語帳。これをまず揃えるべき。でも、新課程になったら朗読CDがなくなってウェブからのストリーミングのみになるのかな?心配。

そんなところかな。本当に、検定教科書は、文科省肝いりで、すごい先生方が心血注いで作った本だから、素晴らしい。素晴らしすぎて、市販の教科書は影響を受け、「検定教科書で勉強できるレベル」の本ってのが、そっくりマーケットからなくなってるんよ。多分。で、検定教科書できっちり勉強した人向け、ってのと、検定教科書の素晴らしさを分かってない人向け、ってのが、書店の書棚に並べて置いてある。本当に伝えなきゃいけないメッセージは、「検定教科書は素晴らしいので、やらないのはもったいなすぎる」っていうことなんだけど、金儲けしないと生きていけないこの社会では、なかなか、そういう大切な事実が得てして声が小さくなり、かき消されていく。ので、このブログ記事では、何回も繰り返します。検定教科書には日本の知恵の粋が詰まっていて、それを安価に入手できる(教科書販売所で!)。勉强し直そうとするなら、まず中学の、そして高校の検定教科書をやるのが、王道だと、俺は思うんです。

『CROWN English Communication I New Edition』(三省堂の高校英語検定教科書、ただし令和4年で既にこれより新しいのが存在)読書感想

三省堂の高校英語検定教科書、『CROWN English Communication I New Edition』を、読み終わった。題名にも長ったらしく注をつけたが、これ、令和4年12月現在、既にこれより新しい教科書が出てて。今年4月から高1の人は、学校がCROWNを採用してる場合、俺が今読んだこれじゃなく、新しい『CROWN』を使ってるはずである。ご注意を。

新しい方を読んでも良かったんだけど、なんか、俺の探した限りじゃ朗読CDが売ってなくて、ウェブサイトから聞けるようになってるだけだったりして。また、『II』と『III』も一気に読もうという気でいるので、新課程版はまだ『II』と『III』が出版されてなかったりしたんで、俺は今回、旧課程版をあえて選んだ。

なんというか、英語の読み物がポンポンと並べて読めるようになってる教科書で、楽しく読解した。色々自己流で勉強してきた中で、気づいてきたのだが、読んで面白いと思える英文に巡り合うことって、そうそうないんだよね。そりゃそうだ、俺、日本人だし。いきなりアメリカのABCニュースとか、ロイター通信の記事とかにかじりついてみたりもしたけど、歯が立たなくって、中断しちゃった。NHKニュースとか、子供の頃、嫌いだったけど、普通に日本に暮らしながら色々学んできて、社会に興味も出てきてから、だんだんNHKニュースが楽しくなってくるじゃないですか。それと同じで、本物のアメリカ英語やイギリス英語を楽しく消費できるような内臓を作るためには、いやマジ、アメリカやイギリスの小中学校の検定教科書を読まなきゃ、ダメだと思うに至りました。

ま、で、今すぐにそれをするのはちょい時期尚早だと思ってて、いや、いつか近いうち、イギリスとかの検定教科書には手を出したいと思ってますけど。けど、順番的に、日本の検定教科書できっちり英語を勉強するのが、日本人として英語を学ぶに際して優先度が高いだろうと判断しました。ちょっと色々わけあって最近中学校の検定教科書をしっかり読む機会があった。いろいろというのは、半年ちょい前から俺、塾講師として働き始めてて。その関係で。で、中学校の検定教科書を読み終わったんで、高校の教科書へと進んだというわけです。

日本人が読むべき内容の英文が選りすぐりで揃ってた、と、思う。言語を学ぶ際、文法とかにももちろん気をつけなきゃいけないけど、それと同じくらい、文章で扱われている内容の方向性にも注意を払うべきだと思う。若田光一さんのこととか、ちゃんと知らないとね。国際宇宙ステーションで日本人代表として世界と向き合ってる人なんだから。そこで若田さんが話す言葉は英語やロシア語だろう。辻井伸行さんの記事も、興味深く読んだ。ピアノの音色に国境は関係ないわけだから、海外の人と共通の話題にしやすい対象の人物だ。「坂茂」とかって、ちゃんと知っとかないと読み方すら自信持てない。「ばんしげる」さんですね。プリツカー賞受賞の建築家。日本の建築界は本当に才能のある先生たちのオンパレードで、プリツカー賞って建築界のノーベル賞って言われてるんだけど、日本人がガンガン受賞してるの、知ってました?俺は数年前ちょっと建築をかじったんで最低限の知識はあったけど、坂茂先生の作品は一回も見たことがなくって、この『CROWN English Communication I』の中の写真で初めて見ました。災害現場に直行して、紙とかを駆使して、応急の建物を美しく建てちゃう人。道理で、表参道の現代建築とかを巡ってた俺のアンテナには引っ掛かんなかったわけだよ。

そんなとこかな。そうだな、文法解説とかを読んだ感想とかも。サラッと書いてあるだけなんでね、文法に関しては。とてもこれだけでは不足だと思います。英文のレベルもそこそこ高いと思ったし、中学英語を完璧にしてきた人が、さあ高校生になった、英語を頑張るぞっつっていきなりこれに取り組んでも、キツいものがあるかなと思う、正直。本屋で、売れてる文法書を別で買って、文法力を補強する必要があろうかと。俺、この前、『大岩のいちばんはじめの英文法』(、俺は超基礎文法編の方を先に)読んだけど、すごい良かったですよ。ああいうのをしっかり読み込んで、最低限の英文法力をつけた上で、先生の指導の元、CROWNにコツコツ取り組んで、わかんなかったらすかさず質問できる環境に身を置くことが、大事なんじゃないか。

あと、んじゃ、そういうふうにして勉强していけたとして、もしくはおとなになってから独学で英語の復習をしてるような人もですが、おすすめしたいことが1つ。朗読CDは、買ったほうが良いと思います。語学なんで、耳から聞いて、口から発音。そういうトレーニングをしないことには、始まらないっすよ。俺は、とりあえずすべての章に対して少なくとも3,4回はシャドウイング、朗読音声を聞きながら同時に発音っすね、そういうメニューをこなしてます。

そんなとこかな。良い教科書でした。サラッと読んでこれで終わり、ってんじゃく、塾での俺の授業で活用することも強く検討してまして、この教科書と今後とも長く関わっていきたいと思ってます。

『英検準1級 総合対策教本』(旺文社)読書感想

『英検準1級 総合対策教本』という、旺文社の英検書を、読み終わった。読書直後のタイミングで、感想文をしたためておきたく、これを書いている。

といっても、この本を読んだのは今回が初めてではなく、数年前にも一回読んでる。また、その時に、英検準1級を受けて、まあ一応合格した。

じゃあなんで今回改めてこれを読み直したかというと、塾講師になったんで、生徒を指導して英語力をつけさせる、学習指導力を磨く必要が出てきたんで。そのような観点から、自分がこれまでやってきた英語学習というものをもう一度客観的に眺め直す必要が生じたからである。

実は、英検1級も調子に乗って何回か受けたんだけど、このまえとか、ギリギリでまた一次試験落っこちちゃって。で、今の俺には、まだ1級は時期尚早、準1級レベルの問題に対して無双状態になるのを目指すのが実践的である、という判断も、今回の『教本』再読のもう1つの動機である。

 

そろそろ、この教本の内容説明も。旺文社の英検書は非常に充実してて、この各級に対して出てる『総合対策教本』、このブログ記事では以下「教本」と呼称するが、この教本は、英検の試験でどんな問題が出るか、どんな対策をすればより点数が取れるか、ということを詳細に説明してくれる。これを読めば、英検の各級の試験がどういう試験なのかがざっくりわかる。教本と、あと、合わせて、英検の過去問をやれば、まあ最低限度の武装にはなると思うよ。試験本番に対してね。

 

あと、準1級というのがどういうレベルかというと、目安「大学中級程度」というのが公式の見解である。俺の体感も交え具体的に言うと、すぐ下の2級までで、一応、文法は全部網羅するんで。準1級は、新しい文法がもはや一切出てこんのよ。で、じゃあ、何が違ってくるかというと、出てくる単語が難しくなる。けどね、1級も、合格してないながらも何回か受けた経験から言うと、1級ほど本気で何でもかんでも聞いてくるわけではなく、ちょっとまだ柔らかい聞き方をしてくれてるのが、ありがたい。例えば、難しめの単語のそばに、その意味を類推できるようなちょい丁寧めの言い換え表現とかがさり気なく書いてあったりとか。

思うに、1級と準1級の壁って、結構高いと思うよ。で、1級の例えば冒頭のボキャブラリー問題が全然出来ないからって、ガリガリ、難しめの単語帳とかを勉強するのも、それだけやってるんじゃあ不毛だと思う。そうじゃなく、英語学習に対する取り組み方そのものを、もっと根底から変えていかなきゃならないんだと俺は思う。1級の、メチャムズの過去問とかに取り組むより、準1級の、読み込んだり聴き込んだりすれば優しくケアの行き届いた過去問で充分。準1級の過去問とかを使って、やるべきは、英文を読んで、自分の頭の中に朗読の音声をスムーズに流せるようになること。フォニックスっていうんだっけか。日本語は、発音は簡単じゃん?でも、漢字を学ぶのがえらい大変。で、英語は、漢字がない。でもその代わり、発音を完全にこなせるまでが結構大変で、準1級や2級レベルの教材を使って、英語の発音を身につけるべきなんだと思うんです。

で、まあ一応、どんな英文でも、読みこなす、すなわち自信を持って音読できる状態になり、そしてその状態になったらやるべきことがあると思う。これ、最近俺、仕事柄、日本語でやったことなんだけど。あのね、英語圏の小学校や中学校の検定教科書を、読むべきなんだと思う。

考えてみてください、NHKニュースとか、子供の頃、聞くの嫌だった思い出はありませんか?でも、大人になるにつれ、社会に関心が出てきて、ニュースをチェックするのが楽しくなっていく。この変化はなぜ起こるのかというと、学校で各科目の勉強をして、社会や科学のことについて知識を得て、自分の意見も持つようになっていったからではないか。

で、塾講師になってすぐに、俺、中学校の検定教科書を、英数国理社と全部読み直した。本当に、まともなことが書いてあって、素晴らしかった。で、英語の話に戻ると、例えば英語の一般向けのラジオニュースとか、俺もかなり一生懸命聴こうと努力したんだけど、続かなくて。なぜか。英語の英数国理社の教科書を読んでないせいで、各分野の英単語や、英語圏で一般的に考えられている世論、また世論に対して自分はどう考えるか、みたいな深まりが、自分の中に熟成してないせいで、それで、ラジオニュースについていけないんだと思う。でもこれ、そりゃそうだよ、だって、NHKニュース聞く時の日本人だって、学校で習った知識をフル活用して聞いてんじゃん。小学生に合わせてニュース作ってたら、みんな怒り出すでしょ。成熟した大人のためのニュースは、聞きこなすにはそれ相応の一般教養というのが必要。で、英語圏にそのような存在としてデビューしようと思ったら、そういう一般教養がなきゃダメなんだ。

 

そこらへんのことが、残念ながら、英検書には書いてない。仕方ない、だって英検書にみんなが期待するのは、いかにして合格するかのノウハウだから。だから俺は、このブログ記事で、みんなに訴えつつ、自分自身にも言い聞かせたい。準1級レベルまで行ったら、ギリギリで準1級受かった!次は1級じゃー!っていうんじゃなく、準1級レベルの教材を大切に何回も繰り返して自分のものにして、英語の文章を頭の中で音声化する能力を確固たるものにして、で、アメリカやイギリスの検定教科書やオンライン教材などを、手を尽くして調べ、入手して、まともな一般教養を、英語圏における一般教養を、身につけることを考えるべきだと思う。

1級レベルで求められる語彙はマジでヤバい。あれに無理やり飛びつくよりも先に、せっかく準1級レベルまでで、基本的な英文を読んだり聴いたりする力が手に入るわけだから、俺は、検定教科書に手を出したい。俺はちょっとイギリスに行ったことがあるんで、ハイネマン社とかを狙ってます。

まずは、俺も、準1級をただ合格しただけで、準1級レベルを完璧にはしてない。正直、リスニングとスピーキングの能力がグラグラ。そこら辺を完璧にして、次のステップに進みたい。という局面で、この「教本」を、読了したところでした。英検準1級の試験の概要が改めて頭に入って、良かった。塾で教える時に使えるように、三省堂の高校の検定教科書でクラウンってのがあるんだけど、それをひと通り読みながら、「クラウンを使っていかにして生徒を準1級レベルにまで指導していけるか」を追求していきたいっす。とりあえず、当面は。

まとまりがつかなくなってきたんで、この辺で。

聖書全体の通読をした感想と、並行して読んだ『ちいろば牧師の一日一章』感想

聖書を通読した。その感想を書く。

まず、聖書を聖書だけでゴリゴリ読み通すのは、俺は不可能でした。

巷には、副読本みたいなのがたくさんあって。つっても、本屋にドカドカ置いてあったりもしなくて、でっかい本屋に行ったり、キリスト教関連書籍の専門店に行かないと入手できなかったりするんじゃないか。

で、俺は、まだ実家に住んでいた頃、家の近くのキリスト教教会に短期間通ったことがあって。で、その教会では、教会全体を挙げて、聖書を一日一章読むというのを推奨してて。それで、俺も読み始めた。

と書いたが、キリスト教との出会いはもっともっと大昔にさかのぼる。大学と大喧嘩の末、日本に見切りをつけて渡英した際に携えていた小さな聖書は、元いた大学でお世話になった恩師に影響されて買ったものだったんじゃないかな。その後、イギリスにて大病、帰国…。そんなイギリス帰りの聖書は、俺の持っている宝の1つだ。

昔話から戻り、現在の話をすると、だから、4年ほど前からかな、実家からちょい東京寄りに引っ越して再び一人暮らしを始めた俺。で、それと前後して、あれ、もしかしたら実家時代かもしれないけど、聖書を読み進める強力なツールを入手した。それが、『ちいろば牧師の一日一章』という本。これは、聖書の一章一章全部に対して、ちょっとした解説、お説教を1ページ分が書いてある。聖書は全部で1300章くらいあるのかな、だから、この本も分厚い。旧約聖書版、新約聖書版に分かれている。

一人暮らしを始めて、忙しさにかまけて聖書を読めなくなった時期もあったが、一人で落ち着いた時間を過ごすうち、いつしかまたコツコツ聖書を読むのが習慣になった。毎晩、聖書を一章読んで、対応の「ちいろば」を読み、そしてご褒美に甘いものを食べ、寝る。そんな生活を3年ほど続けたところ、ついに昨日、聖書全体を読み終わった。

長い!それがまず感想の第一かな。延々と系図が続いてるところとか、詩篇?歌の歌詞になってるようなのを、日本語の翻訳でゴリゴリ読んでも、メロディがわかんないから正直キツい。

でも、ところどころで、マジで面白かった。究極の古典の1つなんでね、大昔に書かれた文章を読んで楽しいというのは人類の一人として充実感はある。例えばエステル記。俺、エステル記大好きなんだけど。なんか、別の民族にユダヤ人たちが支配されていた時代に、ユダヤ人のある女の子が王様のお妃になって、そして、この子がユダヤ人全体を救う、みたいな話。文章も流れるようで無駄がなく、実に読ませる文章だったと記憶している。ストーリー展開もパッパッと切り替わり飽きない、エンターテイメント。ただこれ、「ちいろば」の榎本先生曰く、このエステル記には「神」という単語が一切出てこず、文章の内容もあんまし宗教と関係ないじゃん、みたいなことで、聖書がそもそも編纂された当時においても、このエステル記を聖書に含めるか否かが問題になったらしいんだよね。すったもんだの末、エステル記は残ったというわけ。

あと、ちいろば牧師、すなわち榎本保郎先生は、牧師さんである。俺ん家はキリスト教一家ではまったくないが、昔横浜に住んでた時、そういやトイレの前のラックに『ちいろば先生物語』の文庫版が転がってた。子供の頃は読まなかったが。それを思い出し、『ちいろば牧師の一日一章』のお説教が素晴らしいんで、一年くらい前かな、図書館で『ちいろば先生物語』を借りて、読んだ。この『物語』の方は、三浦綾子っていう作家が榎本先生を取材して書いた、伝記である。太平洋戦争に兵士として従軍し、大変な思いをしてこられたことなどが書いてあった。

聖書の内容に戻る。そうだな、他、聖書を直接読んだ感想は、と。旧約と新約がかなりカラーが変わるんで、旧約から読み始めて挫折してそのままになっちゃうってのは非常にもったいないんで。旧約と並行して新約も一日一章読む、という読み方を俺は友だちに教えてもらって、実践してみてとても快適だった。新約は、まずイエス・キリストを直接知る人の筆になる文章がドカドカ続くんで、分かりやすく、面白い。

やっぱりさ、欧米ってのが、キリスト教文化圏なんで、ある程度以上理解しようとすると、聖書を理解しないとキツくなってくる。壁だよね。だから、可能なら、聖書を通読したいと思ってる日本人は多いと思う。けど、かなり大変なことではあるんで。やっぱり、宗教に対するまっとうな興味というのがないと、読み通すことは出来ないと思う。

最近このブログでは、高校入試関連のブログ記事もどんどんアップしてるんで、もしかしたらここらへんに中高生とかの若い読者が迷い込んでるかもしれないし、いや若くなくてもいいんだけど、ちょっと宗教のことについて語っておく。人生って、楽しい事ばっかりじゃないじゃないですか。ムカつくこともあるよね。ムカつくで済めばまだいいけど、絶対許せない、とか、はたまた、絶対に許されないようなひどいことをしてしまった、とか、そういうのがしがらみになって、身動きが取れなくなっていくものだと思うんです、俺は。このようなしがらみから自らを解放するというのは、人間一人一人の力では無理、少なくとも俺は無理だという判断に至りました。すがるしか、ねえ。で、今までにも、やれ、鎌倉行って泊りがけの坐禅会に参加したりだの、色々やったんですが、どうも、仏教というのは、いや、俺が関わろうとした関わり方で出会った仏教は、人間関係の中で人を癒やしていくという、俺が渇望していたファクターを欠いていたように思います。最近の「マインドフルネス」とかってのは、この前実はちょっち体験する機会があったんだけど、あれは、良いと思う。禅とかヨガが、欧米を経由して、最近日本に逆輸入されてる、というふうによく紹介されるけど、アメリカとかで、禅に足りなかったそういう人間関係の癒やしみたいんが、付け加わって、それでますます最強になってるから、流行り始めてるんじゃないかなと思う。ただ、俺が体験した禅は、ただ座禅を組めば問題は解決する、みたいに、まあ俺が曲解しただけだろうけどさ、そういうものだと思って、結局これで俺は自分を守ることは出来なかった。で、キリスト教というのは、俺が思うに、人間関係を非常に重視してくれて。孤独な人のその孤独を解消しましょう、みたいなの、ホント、俺が求めてるものだった。年齢的に人生の折り返し地点に達してる今、正直、俺、また近場のキリスト教教会に通い始めてて。過去に犯した罪のせいで、人や自分を許せなくなると、なぜか人は孤独状態に落ち込んでいくものだと思うんですよ。そういうのを、自分や家族以外の場で、癒やしていくことは、充実した人生を歩むために、必要だと思うなあ。

ちょっともうまとまらないんで、このへんで。