モーパッサンの短編集の最終3巻目を、読み終わった。その感想を書く。
数日前に1巻目、2巻目についての感想文もこのブログにアップし、それらでもうモーパッサンについて書ききっちゃった感じなんで、付け加え程度に、今、これを書いている。
でもさ、この短編集IIIそのものも、IとIIの補完って感じがするわ。
Iではモーパッサンについて世間がイメージするところの、皮肉、悲惨な短編が並べられてる。「アマブルじいさん」とか。で、IIがなんというか多分、訳者がメインで世に訴えかけたいやつなんじゃないかな。「シモンのとうちゃん」とか、あと「勲章」とか「墓場の女」とかも、現代社会においてもまだ面白さを保つ傑作と言えるんちゃうか。
で、このIIIだが、モーパッサンは従軍経験がある。その戦争体験から、いくつか短編が書かれてて、それらがまず集中的に掲載されている。「母親」も「二十九号の寝台」も、悲惨極まりなく、戦争とは悪いもので、回避すべくみんなが努力しなきゃいけないんだと思わせる佳作だろう。
んで、それら戦争物の次あたりに、オカルト物って言えばいいのかな、オカルトっていうか、ちょっとモーパッサンがおかしくなっちゃってるのかなって思わせる作品、例えば「オルラ」、「たれぞ知る」などが続く。だからよー、これ、この訳者の青柳瑞穂が、うまい配置でこの短編集を編んだなあって、感動し始めてる俺。Iでモーパッサンの世界に入り、IIでどっぷり浸かり、IIIでそのモーパッサンの世界の土台について考察を深める。そういうふうに、順々に学びを深めていける。素晴らしい短編集だ。IIIの話に戻ると、だから、戦争経験を通じて、やっぱり、モーパッサンは、おかしくなっていったんだと思うよ。彼の精神病はそれだけが原因じゃないって言う人もいると思うんだけど、でもさ、人間ってのはみんな何かしら心に傷は抱えてるもので、でも、それをこじらせずに80、90までの寿命を生ききるのが普通。でもそこに、戦争、しかも兵士としての従軍経験、っていう大きなストレスがかかると、それが致命的な引き金になって、精神全体が崩壊していく。モーパッサンに起こったことって、つまりはそういうことだったんじゃないかなと、俺は思う。ほんと、「オルラ」とか、これも、新聞で発表された短編なのかなあ。マジおかしい人の頭の中だってば。やべえよこれ。
そして、最後に、I、II、IIIの分類から漏れ落ちたいくつかの短編が配置されている。特にラストの「パリ人の日曜日」が重要。大体100ページくらいのボリュームだが、あとがきで青柳先生がご指摘の通り、おそらくこれは10個の短編のための創作ノートが、モーパッサンの死後にまとめられて出版に至ったのだろう。じゃあなんでこれが短編集にまで載っているのか。それは、IIIが目的とするところの、モーパッサンの短編の思想的背景、短編の作られ方の秘密に関するヒントにあふれているからであろう。特にこの中の「晩餐会に意見のかずかず」中のラードくんの政府への不信の表明、「民衆大会」中の「沈鬱な顔つきをした一人の青年」による男女同権批判は、苛烈を極める。ただ、これくらい激しい意見でも自由に出回るような社会でないと、逆にその社会は危ういとも思うけど。あと、そもそもこれ出版したのモーパッサン自身じゃないし。死後に他人がやったことでしょ。モーパッサンの目の行き届かないところで生まれた作品なので、生前の作品と同一視すべきでもない。
「パリ人の日曜日」中のいくつかや、その他の短編でも扱われているネタを、合成して、全体の一つにしていけば、その長編は大傑作になったのかもしれないが、どうも、「二十九号の寝台」を読むと、いちいちそんな微細な文学表現なんかよりも、戦争の悲惨さっていうのが凄まじすぎて、その他のすべてが吹き飛ばされていくような気がする。モーパッサンの精神の中に起こったことも、方向性的にはそういうことだったんじゃないかと想像する。惜しい人を早くに亡くした。