説明責任の行き届いた社会を目指して

大昔、生物学者になりたかった40過ぎが、今また再チャレンジ

「君が僕の息子について教えてくれたこと」視聴感想:『自閉症の僕が跳びはねる理由』の理解が深まり、良かった。

自閉症の僕が跳びはねる理由』著者の東田直樹と世界中の読者達の関わりを特集したドキュメンタリービデオ、「君が僕の息子について教えてくれたこと」を見た。

Dailymotionで見ることができた。

自閉症の~』を先に読んでからこのビデオを見たというパターン。世の中、逆にビデオから見たっていう人も多くいるだろう。俺の場合は、まず文章から著者はどんな人なんだろうと想像してたんで、実際接写のクリアな映像で本人の動いてる姿を見ることができて、うれしかった。

本を読んで著者の東田さんに関心を持ったら、このビデオも是非見ることをおすすめしたい。本の理解もより深まると思う。

ただ、本を読まずにこのビデオを見ただけでは、浅い理解にとどまってしまう。『自閉症の~』が、メガトン級の良書だからなおさらだ。なんでジャンプし続けるかの理由を当事者本人が説明した、と、言葉にすればそれだけだが、それがどんなに貴重で大変なことだったのかが、このビデオを見ると痛いほど感じ取れる。そして、この本が海外に与えた影響もビンビン伝わってくる。ノルウェー自閉症の当事者の方が、跳びはねる理由を自分で説明してるシーンなど、印象深かった。

素晴らしいドキュメンタリービデオだった。

『続・自閉症の僕が跳びはねる理由』読書感想:著者の成長を感じられて楽しかった

発達障害について知ろうとする中で、『自閉症の僕が跳びはねる理由』に引き続き、『続・自閉症の僕が跳びはねる理由』を、今、読了した。

前著同様、この『続~』も、日本語の良さは際立っている。

文学的?には、前著の方が言葉一つ一つの粒が立ってたというか、磨き抜かれたキレの良さを強く感じた。けど、これは全く的はずれな注文であることは自覚してるつもり。本の出版などの社会との関わりの中で、著者の東田が、より、いわゆる「普通」になってきた、ということなのだろう。前著の『自閉症の僕が跳びはねる理由』は、言葉によるアウトプットの困難さに七転八倒しながらもんどり打ってひねり出した文章だったのに対して、『続~』時代になると大勢の会衆の前で講演するなど、言葉による表現がよりスムーズになってきた分、彼の文章もより普通の作家の文章に近づいてきたということだろう。それは喜ばしいこと。ただ、『自閉症の僕が跳びはねる理由』は今後も永遠に輝いていくことだろう。岩崎恭子が14歳でつかんだ金メダルのようなものだ。

『続~』の楽しさは、前著と比較しながら読むことで、著者の東田の成長進化をはっきりと感じ取ることができる点にあると思う。彼と同時代に生きていることがラッキーなのであり、ネットで検索したらかなり他にも精力的に著書を出版したりしてるようなので、どんどん他の本も読んでみたいと思う。可能なら講演で生の姿を見てみたい。

面白かったです。

『自閉症の僕が跳びはねる理由』読書感想:自閉症当事者によるいわゆる異常行動の解説本。非常に名文。

東田直樹の、『自閉症の僕が跳びはねる理由』を、図書館で借りて、今、読み終わった。直後のこのタイミングで読書感想文をしたためておきたく、今、このブログを書いている。

言語感覚が非常に繊細で、単語一つ一つを使いこなしており、見事な文章だ。こんな文章を紡ぎ出せる人間を、この社会は「障害者」と呼ぶ。全くおかしな話だと思った。東田さんは、人並みでない面に関してはそれを自覚し周りに助けを求めることができ、そして優れた面に関してはその才能を自覚し、その才能を生かして社会に貢献していこうとしている。この本がまさにそのような営みの集大成だ。溢れる文才を駆使して、「自閉症の人たちを社会がもっと理解し受け入れ、そして社会全体がより良くなっていくように」というビジョンを一冊の本の形にまとめ上げた。それがこの本である。

諸事情で、発達障害について学ぶ必要を感じていたところ、友人に勧められてこの本を知った。大変良い本なので、多くの人に読んでもらいたい。この場で僕から皆さんに対してもお勧めします。

社会でいわゆる「障害者」と呼ばれる側の本人の筆による、普通でない思考・行動の解説本。海外を含め類書はないかあっても非常に珍しいのだろう。翻訳版も出版されている。

感動した。

2022/02/28月の振り返り:就活。条件がちょっと悪くなってるが、一社、合格できたのは非常に助かる。

昨日、振り返りブログをまとめた後、さらに数人の友達に電話して、就活の状況を伝え、相談した。

で、急に決まった面接とかについて、もっと慎重になったほうがいいんじゃないか、と思い、今日、朝イチでハローワークに行ってきた。で、いつもお世話になっているスタッフの方に相談することができ、で、そこまで不審がることもないのではないかと言われた。

ので、予定通り、午後イチに、アポイントメントいただいてた会社に伺ってきた。

まずSPIを受けた。その後、面接。

結果、まあ、なんとか、合格、というか、来てくださいということだった。

提示された条件面などが、求人票記載の内容からズレがあり、もう少し時間をおいて検討したい点が残っていたので、数日間こちらからのお返事を待っていただくことをご了解いただき、失礼して、帰ってきた。

お世話になった友達に、お礼の電話・メールしまくってたら、夜になってしまった。

明日は、もうちょい状況の整理と、関係各所への相談をもっとやっていく。

カズオ・イシグロの『日の名残り』読書感想:品格のある思考と品格のある行動の両立って難しい

カズオ・イシグロの『日の名残り』を、たった今、読み終わった。

読書直後のこのタイミングで感想を書きたく、今これを書いている。

今回読んだ版は「早川書房epi文庫」の割と古い翻訳。

非常に面白かった。

図書館で、カズオ・イシグロの本を一冊読みたくて、どれにしようか迷って別の本の序文とかも読んだときに書いてあったと記憶しているが、カズオ・イシグロは、テレビとかじゃない小説というメディアの可能性を模索してて、ドラマで同じことができるんだったら小説なんて書く意味ない、みたいな考えのようだった。で、今回『日の名残り』を読んでみて、その言葉に恥じないというか、まさにというか、小説という形式をフル活用した、工夫の行き届いた佳作だと思った。旅をしながら、思い出にもひたり、その思い出の叙述が非常に自然に小説の中に配置されており、小説の進行が人間の頭の働きを熟知しててピッタリ寄り添いつつ進んでいくように感じた。読んでて心地よかった。

たまたま最近、アメリカ文学の『グレート・ギャツビー』と英文学の『デイヴィッド・コパフィールド』を読んだんで、もちろん全体的な視野を持ってというのは言い過ぎだけど、これらの過去の古典2作品を踏まえた上で『日の名残り』を読めたのは良かった。かゆいところに手のとどくというか、そう、そこらへんが知りたかったんだ、と、思った。執事というキャラが古典2冊でも共通に重要な役どころを担うのだが、じゃあ執事本人はどんな考えを持ちどんな人生を歩んでいるのかが、いまいち腑に落ちない点があった。そして、『日の名残り』は、ずばり執事が主人公であり、執事の心の内面が文章いっぱいに溢れてる。

この主人公のミスター・スティーブンスが追求し続ける「品格」についてだが、思考と行動の2つの面からアプローチする際、ちょっと別物のように見え、なんというか、俺もよくわかってないんだけど、物理で、光っていうのは波のようでもあり粒子のようでもあるらしいじゃないですか。品格も、思考に品格があるというのと行動に品格があるというのとが、パッと見、直接関係してないように感じちゃう。

品格のある思考というのは、理性の行き届いた丁寧な、という意味だと、安直に考えるとそんな言葉が思い浮かぶが、事はそう単純ではない。意識的な思考というのは心の全体のほんの一部であり、無礼なことをしてしまうのは無意識的な思考からしでかしてしまうことも往々にしてあるので、品格のある思考イコール理性の行き届いたということではない。無意識の範囲にもベストを尽くしてアンテナを張り巡らせ、普段から勉強して自己理解に努め、バランスの取れた精神を自らのうちに涵養していく姿勢が、品格のある思考ということなのだと思う。

それに対して、品格のある行動とはなにか。ちょっと話は飛ぶんだけど、この『日の名残り』のラストの終わり方が、品格あるなあ、と思ったんだけど。イギリス的な、抑制の効いたジェントルな感じ。アウトプットである行動の裏を類推して、品格ある思考をしてるなあと人を尊敬するのもよくあることで、裁判での法律の適用とかも、そういう発想ってよくあるけど、アウトプットである行動そのものが品格があるかどうかっていうのは、また別物なような気がする。

思考が行動を生むし、行動した結果によって考え直し、思想・哲学というものが修正・発展されていく。そしてまた、時の流れとともに人は絶えず次へ、次へと思考し、行動していかねばならない。ところが、思想・哲学というものは、意識してる範囲内のものであって、無意識エリアだけどあと一歩のところに、実はいちばん重要な要素が来てる、ということが、本当に、人生、がんばればがんばるほど、不思議なことに、そんなことばっかりだ。それどころか、自分の哲学でがんばって考え抜き行動していったまさにその結果として、自分の哲学がカバーしきれてない弱点により、事態をさらに悪化させてしまう。苦しい。そういう苦しみを、これ以上ないほど鮮やかに小説という手段で描ききった『日の名残り』はすげー。

じゃあ『日の名残り』以後の我々現代人としては、どのように生きていくべきだろうか。品格のある思考と品格のある行動を両立させていくには。品格のある行動を取り続けていくにはどうすればいいのだろうか。また、品格のある行動を取るために品格のある思考を犠牲にしてもいいのか。これは『日の名残り』に出てきたイギリスとアメリカの摩擦にも通じる問題かと思う。まあ国際問題を持ち出すよりかは、ここでは個人レベルの話をしたいのだが、だから恋愛とかって、真面目すぎると困難だよね。

ちょっと、もう、今日はこれ以上はまとまんないかな。何しろ、非常に面白かったです。

英検1級初チャレンジの総括:「受験日までに納得の行く勉強法を編み出し実践し始める」という目標の立て方は正解だった

2022年1月23日、英検1級を初めて受験してきました。

実は昨年10月にも申し込んであったのですが引越し日とかぶってしまい試験を欠席。まともに試験にチャレンジしたのは今回が初です。

 

過去問を少しかじってみて、これは、準1級にギリギリで受かった程度の俺の現状の実力ではとてもじゃないけど歯が立たないレベルだぞ、と、わかってはいました。

そこで、過去問で対策とか、パス単(旺文社が出してる単語帳)のノルマをこなすとか、そういうオーソドックスなガリ勉スタイルを、意識的に破棄。完全に我が道を行くスタイルへ、思い切ってかじを切りました。目標を、英検受験日までに「自分で納得の行く勉強スタイルを確立し、実践し始めること」とし、やり方を模索し続ける毎日が続きました。

そして、だんだん勉強のメニューが固まってきて。今のところたどり着いてる内容を、説明しますね。英語の小説(俺は『グレート・ギャツビー』を選びました)を、翻訳(俺は村上春樹訳をチョイス)を片手に読解し、さらに、朗読音声を何回も聴き直しながら、またちょこっとずつ書き下しながら、一回に原書1ページ分くらいずつ、丸暗記していったのです。

丸暗記をしたのは、『グレート・ギャツビー』の三分の一くらいまで。で、1月の中旬辺りから、単語調べと、あと、暗記する際に3~5行くらいずつに分けて覚えてくのですが、そのチャンク分けを、先にどんどん進めちゃおうという方針に切り替えました。英検本番までに全部終わらせたかったけど、時間的に無理でした。それでも全体の8割り程度は行きました。

小説の暗記と並行して、毎日、英語のラジオを聴いています。BBCのGlobal News PodcastVOAのInternational Editionなどを。30分番組を平日は一日2回放送するので、iPhonePodcastで2倍速で聴いてます。もちろんあんまりわかりませんが、一生懸命続けているうち、何が話題になっているかくらいはわかるようにはなってきています。わかんないなりにも、自分が関心を持てるような番組に巡り合うまで探し続ける作業が大事なんじゃないかなと思います。俺の場合はそれが上述の2番組だったというわけです。

 

と、以上、英検で良い点を取ろうという発想は皆無だったのですが。しかし、今日、英検を受けてみて、自分のやってきたことがあながち的外れでもなかったようであると実感しました。

最近、やっとこさ合格した準1級の試験のとき、特に自分の非力を感じたリスニングに関して、級は今回のほうがワンランク上なのに、いくつかはその内容を完全に理解することができました。スピードも問題なく、あとは単語力の問題であり、それは今後も小説を読み続けていくことで自然と超えていけるハードルなんじゃないかなと思います。

あと、書く順序が逆になっちゃったけど、一番伸びを感じたのはリーディング。長文問題です。わかんない単語があっても先に進めるタフさが、英語の小説原文に毎日取り組んでたせいか、格段にアップしてたようです。まずまずのスピードで、解き終わることができました。

 

もっとも、ボキャブラリー問題はやはり前評判通り難しく、自信ないです。

さらに、一番ひどいのがライティングです。俺は今回、リーディング→ボキャブラリー→ライティング、の順に解きました。で、ライティングに使った時間は25分くらいです。決してそこまで短くもないと思うのですが。しかし、貧弱な文章しか書けませんでした。自信がないもんだから、最初っから部分点狙い。とにかく体裁を整えて、3つ理由を揃えて…と。あれで何単語くらい稼いだんだろ?100ワードもなかったんじゃないかと思います。しかし、しかし…。今回、合格を狙ってたわけではないので、正直、ここらへんは限界だったとも思ってます。

でも、ここを掘り下げて考えると、編み出してきたオリジナル勉強メニューに、作文という要素が欠けてたよね。そこらへんが、今回の敗因だったかなと思います。いや、全く考えてなかったわけではないんです。週に一回、英語を使って日本語を教える機会を作りたいというアイディアもあって、これ、ただの最近の思いつきじゃなく、昔イギリスに留学した時ボランティア日本語講師というのを実際やったこともあって、これが英語力アップに非常に効果があることを経験済み。で、最近新版が出た『Genki』を入手してちょっと読み始めたりもしてた。ここは日本だし、いきなり教える相手の外国人を見つけるのも難しいから、まずは英語の原稿をブログにアップして、ブログ上の日本語教室を開催、なんていうのはどうかなって、思いつつも、実行してなかったんです。これをもっとやれば、授業は英語で進行しなきゃいけないから、自然と英作文の能力も高まっていくでしょう。

 

各科目は、そんな感じです。

恐ろしいことに、「過去問に取り組むことが英語力アップには結びつかない」ことが、俺の中ではもう99%明らかです。過去問は、本当に、それ以上でもそれ以下でもなく、過去どういう問題が出たか、傾向を知ることができる、それだけのものです。自分の英語力をアップさせるために自分なりに勉強方法を工夫するために使う、貴重な気力・時間を削ってまで取り組むべき価値は、残念ながらないと思います。

ただ、英検にチャレンジするということ自体は、大変素晴らしいことだと思います。英検の受験日まで勉強を頑張れる。メリハリのついた生活を送れます。その点に関しては、英検事務局には大変感謝しています。

 

繰り返しになりますが、今回、英検受験に際して俺が自分に課した目標は「英検受験日までに、自分なりに納得の行く勉強法を編み出し、実践し始めること」でした。そして、それはかなり良かったと思っていて、皆さんにもオススメします。

『グレート・ギャツビー』(村上春樹訳)読書感想文

今更だが、今一度『グレート・ギャツビー』の、中央公論新社村上春樹訳を読み直してみた。

この小説の英語の原文を暗記するという方法で英語の勉強を進めている最中で、一回でも暗記作業を済ませたことのある第3章まではもうさすがに読み直すまでもないと思い、第4章から読んで、今、最後まで読了。

緻密に練り上げられた小説だと思う。

つい最近、英文学の『デイヴィッド・コパフィールド』を読んだので、自然と『コパフィールド』と比較してしまう。

『ギャツビー』は、登場人物が作中でどんどん変化、成長していく様がよりはっきりと描かれているのが、『コパフィールド』との一番の違いかな。

扱っているテーマも重厚だ。最後の方で「これは西部の物語だ」という文章が出てくる。そのとおりなのだろう。俺がこの「西部の物語だ」という文章に対してさらに分析を進めることができないのは、歴史学をきちんと勉強してこなかったツケだな。アメリカという国の成り立ち、西部で何が起こってきたか、などなどを、ちゃんと人並みに知れば、もっと『ギャツビー』を理解することができるんじゃないだろうかと思った。

とりあえず歴史学的分析は今はできないから置いとくとして、この本のテーマに現時点で俺が言えることを探すと、うーん、そうだな。ただ単に読者を楽しませるだけの本じゃないよね、これ。読む前と読んだ後で、読者の精神が変わっていく。大人になっていく。そういう現象を起こすことをはっきりと狙い、そして成功している本だと思う。

デイジーに対して求めすぎてしまうギャツビー、ギャツビーを好きだけど当然現実世界にも生きているデイジー、金持ちの常識や金持ちのものの考え方をきちんと兼ね備えているトム。ニューヨークのホテル個室でのこの三人の言い争いは本当に真に迫るものがあり、何回目かの読書だが今回も俺はこれがフィクションであることを忘れた。ことの成り行き次第では十分勝算のあったギャツビーだが、トムの策略、デイジーの事情、そして何よりギャツビー自身の自爆により恋に破れ、そしてこの世からも去っていく。そのような激しい人生が、大半は普通の人で占められる社会の中で、光ってるよ。ジェームズ・ギャッツの作り出したウソは、ただのウソを超えて、実体を持った具体的存在として確かに生きた。

夢を追い続ける人に対する教育的効果ひとつ取ってみても、この本が果たしている社会貢献は計り知れない。夢を追い続けるというのは美しいことだが、追い続けるうちに、自分が変わり、社会が変わり、夢の対象が変わっていく。常に諸々補正、調整を重ねながらでないと、単に夢を追い続けるだけではトンチンカンなことになってしまう可能性が非常に高い。それをこの本は気づかせてくれる。そしてさらに、そういう事に気づかないまま行動していた頃の未熟な自分の無謀な挑戦と、この本との出会いが、不思議とリンクしてて、読者はギャツビーの悲劇に涙し、その後、再読するたびに青春時代全体を追体験するのだ。