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『ぼくはディスレクシア』読書感想文:学者が書いた読み書き困難者の本、と片付けないで。生々しい当事者の声が詰まってる

学習障害」というものについて学びたくなり、図書館で書棚に並んでた本の中で一番わかりやすそうだと手に取ったのが、『ぼくはディスレクシア』だった。

学習障害と言っても色々あり、そのうちの一つ、「読み書き困難を呈するタイプ」を英語で言うとディスレクシア

本書は、ディスレクシアの子供と、そのお母さんの、共著である。どんなふうにディスレクシアに立ち向かってきたかの生々しい記録がビシバシ詰まってる。そして、この本が単なる「当事者発の記録」以上のものになっているのは、このお母さんという人が、プロの臨床心理学の専門家であること。学問的な正確性という点からも、大いに頼りになる。もっとも、読み終わってみて、学問的な正確性とかよりも大事な何かが行間からにじみ出てて、お母さんが専門家であったことはそこまで根本的に重要なことでもない気がするよ。

これ、アメリカの本の翻訳。なので、舞台はアメリカ。長男のデヴィッドがディスレクシアであることがどのように明らかになっていって、お母さんのリサや本人がどうその現実を認め、支援につながっていったかが、一つ一つの出来事にどんな感情を感じたかとともに克明に書かれている。

で、もちろん、ディスレクシアを克服していく過程も描かれるが、残念ながら、肝心の、具体的にどんなメニューをこなしていくことでディスレクシアに対処していったかが、そこまで網羅的に書かれてはいない。専門家に任せました、で、終わってる。ただこれでも問題はない。ディスレクシアの子供の学習指導は、専門家の助けを借りることが必要な事柄なのであって、特に第14章の「学んだ教訓」にて、ディスレクシアの当事者家族に向けてのアドバイスの列挙は圧巻。困ってる当事者には行動指針としてダイレクトに役立つんじゃないかな。

でもさ、俺としてはディスレクシアの子供への学習指導法は具体的にどんなものなのかを知りたいんで、てことは、この本だけではその具体的な方法を知ることは出来ないんで、さらに他書を当たるしかないな。まあでも、ディスレクシアってどんなものなのかを知るために、手始めにこの本を読む、というのは、良いと思った。

付け加えて言うと、これ、アメリカ人の読み書き習得の話なんで、当然、英語力の獲得の話になる。それがまた、俺は、興味深く読んだ。英語は、日本語とかイタリア語みたいに文字と音がダイレクトに関係しておらず、例外的な読み方のオンパレードだ。そこらへん、デヴィッドは習得に苦しみぬく。例えば、何でknightはクナイトと読まないんだ、とか。第二言語として英語を勉強してる俺にとって、ああ、アメリカ人の子供でもこういうこと思うんだ、と、参考になった。